darkness







  1.生まれる不運
 そう、彼は変わった嗜好の青年だった。 切れ長の深い翠の瞳。見方によっては藍色にも見える黒い髪。病的、とま ではいかないが白い色をしている肌。その容貌はまるで陶人形のごとく、美 しいという描写がよく似合っていた。  だが作り物のような彼は、その美しい容貌に不似合いな酷薄な笑みを浮か べる。残酷で、実に狂気的な、見ているものの背を凍りつかせるような笑み。 口元を吊り上げる、という行為があまりにも、どこまでも作りもので。  あのときも狂気を宿す暗い翠が、冷やかな眼でわたしを見やっていた。た だただ、口元に孤を描いて。低く、よく通る声でうずくまるわたしに囁いた。 「君はどうしてこんなところにいるんだ」  薄暗く、狭い路地はわたしの壁だった。全てから自身を守るための、城。 捨てられてからずっと、ここにいたからその質問には答えることができなか った。ここでこうして空腹に膝を抱えて時間を無意味に過ごすのが当たり前 だったからである。 「どうして?さあ、どうしてだろうね」  思わず首を傾げた。腹が空いたら通行人のみぐるみをはぎ取って、それを 身にまとい、奪った財布の中をまさぐればいい。いつからか、非日常は日常 と化していった。親の顔なんてもう覚えていない。何年も、こうした生活を 続けてきて、自分を守る術だって自分で学んでいった。  そこでわたしはふと疑問に思った。  どうしてわたしは彼に攻撃を仕掛けないのか。わたしのポケットに突っ込 んだ右手には、しっかりとナイフが握られているというのに。  じっと青年の顔を見上げる。そして、ああ、と納得がいった。彼はあまり にも強いのだ。今まで培ってきた第6感がわたしに危険だというシグナルを 脳に発する。だけどわたしは逃げなかった。彼に、敵意がなかったからだ。  話し相手に敵意を向けられないのはほとんど初めてで、わたしは半ば茫然 と深い翠を見つめていた。  唐突に、彼はわたしにこう告げた。 「俺の元で働く気はないか」  差し出された手を、わたしは迷わずに取った。  なぜだかそれが、今まで渇望していたことのような気がして、空腹よりも 心が満たされた感覚がわたしを満たした。なににしろ、わたしは彼に魅かれ るものがあった。人形のような美貌もあったが、その内に秘められた狂気を 感じたからだ。彼のアンバランスさは、なによりもわたしの好奇心を誘った。  これが、わたしと彼の出会いだった。   「どうしてわたしを拾ったの?」  といつだったか、聞いてみたことがある。彼はふと微笑んで、わたしの顔 を覗き込んだ。限界ギリギリまでわたしの顔に秀麗な顔を近づけて、言う。 「君の瞳が気に入ったからだ」 「瞳?」 「ああ……その世界そのものを憎んでいるような狂気的な瞳がね」 「もの好きね」 「君もな」  青年は今日も奇麗に微笑んでいる。その白い肌にはべっとりと、赤く粘着 質な液体がところどころ散っている。それは身にまとうシャツにも、だ。手 には小ぶりのナイフが握られている。白銀の刃から、鮮血が細く伝い床に落 ちる。  広い部屋の片隅に、この屋敷の主人が倒れていた。赤い、赤い、液体が床 を侵食していく。その光景を残酷だと思っているわたしの手にも、血濡れた ナイフが握られていた。    生まれる不運?そんなこと感じたことはない。感じる前に、わたしは独り だったのだから。からっぽのわたしを満たすのは、むせかえるような鉄錆臭 いにおいと、わたしが愛する彼の狂気。
2.something:one
 その日は、少し赤みがかかった大きな満月だった。一面の銀世界に、落ち たような暗さの闇によく映えていた。ぱらぱらと、まばらに粉雪が舞ってい る。息を震わせる、肌が裂けるように冷たい空気が、体温を冷やしていく。  わたしは薄着でそこにいた。体温が低くなっていくのも構わずに、ただ一 点を見つめていた。彼を、見ていた。  彼は『仕事』から帰ってきたばかりなのに、ひたすらに空を見上げていた。 わたしも、もう見慣れた色を薄茶のコートにべったりとつけて。それに気づ いたわたしは、こうして彼の家から外へ出てみたのだ。彼が一体何をしてい るのかが知りたくて。  だが外は寒いだけで何も感じない。そこに彼がいるだけで景色も変わらな い。沈んだ色の緑に、月が映っている。その目を覗き込めばさぞかし奇麗な ことだろう。それでもわたしは彼に声をかけることもできなかったし、近づ くことさえもかなわなかった。  そこが、わたしと彼の境界線だったのだ。近すぎず、遠すぎずの不思議な 関係は、拾われてからずっと続いている。  もう、3年も経った。早いものだ。3年、といっても彼と顔をきちんと合 わし始めたのはごく最近で、ただ単にわたしは彼の家で過ごし、まれに彼に 頼まれる『仕事』を手伝っているだけだった。 「なあ、お前はどうだ」  突拍子もない質問に、わたしは首を傾げた。いつのまにか、彼の目は月で はなく、わたしを映していた。その眼差しは、いつもより温度をもっていな かった。あまりに虚ろに陰る翠に、わたしはなぜか不安になった。 「人を殺して、何かを感じるか」 「感じないわ。だって知らない人じゃない」 「じゃあ、もしよく知っている人だったら?」 「――――」  わたしは答えに詰まった。わたしがよく知っている人なんて、彼以外にい なかったからだ。そしてわたしはゆっくりと考える。指先が、足が、冷えて いくのも気にせずに。  もし、彼を殺したら?  考えた瞬間、怖気が走った。 「こわい」 「どうして?」 「だって、怖いもの」 「……そう、か」  彼は微笑した。見とれるほど、きれいに。どこか歪な笑みを浮かべた彼は、 わたしは1歩、また1歩と近づいてくる。わたしは動けなかった。その目は わたしを射て、冷たい地面に固定する。  ひゅ、と自分の喉が鳴った。 「じゃあ、お前を殺したら、俺はどう思うかな」  気がついた時には、わたしの足は地面から離れていた。  首を掴み上げられている、ということに気付くまで時間がかかった。彼が こうして、わたしに危害を加えようとしてくるのは初めてのことだったから だ。そんな華奢そうな腕が、人間ひとりを片手で持ち上げられるものなのか。  このままでは死んでしまう、と必死に彼の腕をつかむがびくともしない。 ひきつった声が漏れた。頭に血が上ったような感覚で、思考が朦朧とする。 息ができなくて、肺が酸素を欲しがってきりきりと痛む。固く瞑ったわたし の目から、生理的な涙が一筋、零れ落ちた。 「うぁ……ッ」  いきなり彼の腕の力が抜けて、わたしは雪の上に尻もちをついた。同時に 喉を押さえてひどく咳をする。喉がひゅう、と鳴った。霞んだ目で彼を見上 げる。  彼は茫然とした顔で、わたしを静かに見下ろしていた。翠の目や、人形の ような顔にはまったくといっていいほど表情が浮かんでおらず、何を考えて いるかは窺えなかった。  次に彼は今までわたしを締め上げていた手に視線を移した。  そして、聞き取れないのではないかというほど小さな声で呟いた。 「時々、わからなくなるんだ」 「……?」 「生きれば生きるほど、今まで殺していた何かが頭をかきまわすんだ。どう してだと思う」  その質問ほど、悲しく虚しいものだということを彼は知らない。  わたしは切なくなった。悲しくなった。感情のコントロールさえできない 彼は、今や世界で恐れられる暗殺者だ。そんな彼を、なんて危うい存在なの かと思う。どうかわたしは彼のそばに、少しでも長くいられることを望む。  わたしは彼を守りたいと思った。救いたいとも思う。あの、終わりのない 闇の淵から。それができない彼の闇の深さ、冷たさ。狂った彼は、なにひと つとしてつかむことができない。  そんな彼のそばにいることを望んでいるわたしも、狂っているのだろう。 「それはね、あなたが人間だからよ」 「……お前は俺がまだ人間だと思うか」 「あなたが人間じゃないなら、わたしも人間じゃないわ」 「そうだ、な」  掠れた声はどこか嘲笑を含んでいた。彼はわたしの答えに満足したのか、 いつものような軽薄な笑みを浮かべると、わたしの肩に血まみれのコートを かぶせた。彼がわたしの手をつかみ、雪の上から立たせる。 「冷たい」 「あなたもね」  冷え切ったわたしの手を握った手も、ひんやりと冷たかった。そこに「ご めん」という言葉が込められている気がして、妙に切なくなった。  
3.?
 ときどき彼は数週間帰ってこないことがある。それは『仕事』のためであ るのはわかってはいるのだけれど、それでもわたしは不安になる。彼がもう、 帰ってこないんじゃないのかと。  だからわたしは日に日に知りたくなる。  彼が一体外で何をしているのか。彼はわたしを大事に思ってくれている。 そのためかわたしは『仕事』以外でこの屋敷の敷地内からでたことがない。 いわく、まだ強くないからだそうで。彼がわたしに頼むことはひとつだけ。 「仕事を手伝ってほしい」  ひとりでは少し面倒くさいから、と。  彼が考えていることがわからない。  わたしはだからこそ彼が知りたいのだ。    ある日の朝、彼が屋敷に帰ってきた。広い屋敷で暇だったわたしは、ソフ ァで行儀悪く立膝をして、気づかずに本を読んでいた。ふと背後の気配に気 づくと、彼がいた。 「ただいま」 「おかえりなさい」  もう何度目かになるのかわからないほど言った言葉に、わたしは自然と微 笑する。それをどうとったのか、彼は困ったような表情を浮かべてわたしの 頭をなでた。 「……悪いね」 「なにが?」 「知ってるくせに」  彼は私の隣に座った。  一緒になって目を瞑る。暗闇がわたしたちを迎え、静寂が包みこむ。隣の 体温が、いつも以上に冷えている気がして、わたしは彼にもたれかかった。 彼は何も言わない。  未だわたしは彼の薄い境界線を踏み越えられずにいる。きっと彼は聞けば こたえてくれるのだろう。でもわたしにそんな勇気はまだでなくて。境界線 は薄く、それでいてはっきりとした拒絶に感じられる。 「聞きたくなったら、聞くわ。そのときは答えてくれるんでしょ?」 「気が向いたらね」  ふ、と彼は微笑んだ。何を考えているのか、わかりづらい目がわたしを映 している。静かな目だ、と思った。深く、それでいて濁らない透明な翠は神 秘的な美しさを持っている。この目に魅かれるのはわたしだけではないだろ う。 「君は無知のままでいいんだよ」  彼の、本当にまれに呟かれるわがままな言葉はわたしを縛り付け、疑問の 渦に思考を沈ませる。わたしが見たなかで一番強い彼が、たまに仕事に連れ て行ってくれるのはどうしてだろう。その意味に期待しても、わたしはそれ を聞かないし、彼もそれを語らない。  ――――そんな、よくわからない関係。  
4.アルモノとナイモノ
 ところで、この大きな屋敷には、わたしと彼以外にも人がいる。いや、あ れは人といっていいのだろうか?同じように見えるのに、彼は「違う」と否 定したモノ。 「リズ」 「なんで御座いましょう」  ゆったりとした奇麗な動作で、彼女はわたしの目の前の机の上に陶器のカ ップを置いた。丸みのあるカップに、暖かい煎れたての珈琲が注がれていく。 たぷたぷ、と音を立てながら、湯気を立たせているそれはとても美味しそう な香りがした。そうでなくとも、彼女の煎れる珈琲は絶品なのだ。 「いつもありがとう」 「当り前のことですわ」 「や、でも話し相手リズだけだしね。大事なの。だから御礼を言ったのよ。 わかる?」 「非常に難解な言葉に感じます」 「ふふ」  そう、彼女は機械でできているアンドロイドだった。ただ、皮膚も人間の ような柔らかさがあり(そう作ったらしい)、温度もあるし(機動している のだから当然か)、表情もある(これは不思議だ)。本当に、本当に人間の よう。  でも少し、まだ人と接する際の感情がよくわからないようで(彼と生活し ていたのだから当たり前だ)、よくわたしに質問をしてくる。困ったもので、 わたしは彼女の質問に、彼女が満足するような答えを返せたことがない。  相手は機械なので、当たり前なのかもしれないが。  珈琲を一口、口に含む。ああ、今日も美味しい。  これで一日が決まる気がする。  余談だが、リズは彼が起動させたものだそうだ。もしかしなくても彼は天 才だったのだろうか、と思ったが、先代が作ってあったものを好奇心で再起 動させたのが彼らしい。彼はリズを屋敷の掃除、わたしの世話、屋敷のセキ ュリティを任せている。(彼曰く、戦闘もできるそうだ)  わたしの世話というところで微妙な気分になりながらも、当の本人(本機?) のリズはわたしが珈琲を飲むのを見て、満足そうに微笑んでいる。  とたん、わたしの背中はむず痒くなる。彼がたまに優しく頭を撫でるとき と一緒の感覚だ。ようするに、気恥しい。同時に、うれしい。親に愛情とい うものを注がれたことのないわたしは、このような彼女たちの一面が慣れな い。  それでも、この心地よさ。ほんとの家族のような、まどろみにわたしを溺 れさせる。もう、彼女たちなしでは生きていけない。ずっと、こんな時が続 けばいい。 「あなたとわたしは、そう変わらないわ」 「そうでしょうか」 「肉体があっても、心が機械のような人もいるのよ。あなたのほうがずっと、 優しいわ」 「そのような人間がいるでしょうか」 「ハート(心臓)じゃなくって、メンタル(精神)よ。もう、真面目に捉え ないで。例えばなしよ」 「だと思いました」  最近はリズも冗談を言うようになってきた。わたしが毎日話しかけている 結果だとしたら、それはそれで嬉しいものだ。ちょっと、上げ足をとられる こともしばしば。 「私に心があるというのは不鮮明ですが」 「わたしには普通の人間よりあなたの方が、心があると思うわ」  目を瞑ると、昔のわたしが鮮明に思い出される。街の人々がわたしを見た 時に向ける軽蔑の視線、卑猥な笑みを浮かべたゲス野郎とか、そいつらから ひっこぬいた財布。人を殴りすぎて痛い拳。冷たい、街。冷たい、セカイ。 冷たい、すべて。  そんなクズの集まりより、彼女の目、言葉のどんなキレイなことか。手を 汚してもひたすらに純粋で、純粋で、透明な言葉を紡ぐ人形。壊すことしか しらないわたしたち人間の、どんなに醜い醜態をさらしていることか。  ねえそうでしょ、     。
5.目か、耳か
 わたしは思わず顔をしかめた。  これは、わたしの目が悪いのだろうか?それとも耳が悪いのだろうか。そ うだ、どっちも悪いのだ。そうでなきゃリズがこんなことをしているわけが ない。さっきからさかんに聞こえてくる破壊音。モニターを冷たく見るわた しの目には、彼女の戦う姿があった。  戦う、というよりもこれは虐殺に等しい。  確かに彼は、リズが戦えると言っていた。彼女のおかげでセキリュティは 万全だと。  だけど、わたしはここまでのものとは想像もしてなかったし、機械でこの 動きはそれこそありえないのだ。しなやかな跳躍、音のない着地、残像が見 えるほど早い拳。これほど素早い動きのできる機械なんて見たことがない。  彼女が侵入者を手に掛けることを、わたしは何とも思わない。  わたしが疑問に思うのは、そう。  どうして彼の先代はこんなものを作れたのかということ。今の科学技術じ ゃありえない。それほど科学に疎いこの世界に、彼女はあまりにも異質なの だ。  どうして彼女が作れたのか、どうして作ったのか。  きっと彼に聞いても答えてはくれない。だったら自分で調べるべきなのだ ろうか、それともリズ自身に聞くべきなのだろうか。そのときわたしは無事 でいられるのだろうか。  臆病なわたしはもう一度モニターごしに彼女を見て、セキュリティ管理を している部屋を出た。彼女を問うならこの屋敷自身も問わなくてはいけない だろう、と唇を噛む。そうしたらわたしは、何にしろここにはいられなくな るだろう。  それは、いやだ。なのに、  わたしはどうしてこんなに知りたいのだろうか。
6.選択へ
 痛い痛い痛い痛い痛いイタイ痛いイタイイタイいたい、  そんな言葉だけが脳内に駆け巡る。それしか思いつかないとでもいうよう に、しつこく思考を支配する。それと同時に全身を支配する激痛がわたしの 顔を歪めさせた。むしろこれはもう痛みを通り越して、熱い。 「ぁ――――、う、ぐぅ……っ」  助けを呼ぼうとしても、うまく言葉が紡げない。感覚があやふやで、口を 開けているかもよくわからない。血を、流しすぎただろうか。目がかすむ。 もう駄目なのだろうか、とさえ感じる。  傷口のある横腹からこれ以上血がでないよう、気休めに抑えているものの。  血は少なくなってきたが、それは体全体の血液が不足しているということ だ。それにおそらく臓器までイってしまっていると思う。腹を壊したときに 似た、臓器が鈍痛む感覚。ほかに考えることがたくさんあるのに、頭には 「痛い」しか浮かんでこない。  ああ、どうしてこんなことになったんだっけ?  そう、確か今日はリズが屋敷にいない日なのだ。  この屋敷のセキュリティは通常より下がっている。むしろないに等しい。 リズがいたから、今までこの家に侵入者というものは一人も現れなかった。 そのリズは、今日は「所用ができた」と言って、屋敷にいない。彼は仕事に 行っている。  ようするに、この屋敷にはわたし独りだけ。  お約束のごとく、侵入者がやってきたというわけだ。  闘い、にこの生活で慣れたはずだったのに、侵入者はあっさりとわたしを 動けなくした。姿も、確認できなかったほど、速く。「邪魔」と一言わたし に投げかけて。男だったのはスーツや声で分かったが、顔なんて見ることが できなかった。ただおぼろげに覚えている、その侵入者がわたしを見て一瞬 首を傾げたということ。それだけしかわからなかった。  どうしよう、立たなくちゃ、せめて逃げなくちゃ、  そうは思っても、ここまで重症になったことがなかったので、どうしよう もない。冷たくなっていく感覚がするような、しないような。よくわからな いが、意識が遠のいていく感覚は理解できる。  そんなことを考えていた時、ふと私の視界に影が落ちた。 「あいつ、どこ行ったか知ってる?」  それはいうまでもなく、侵入者のものだった。侵入者は床に倒れているわ たしをしゃがんで見つめながら、また首を傾げていた。銀色の髪に、灰色の 瞳。20代前半だろう。 「あいつ」はおそらく「彼」のことだろう。痛みで答えられないわたしに気 がついたのか、男はひとり合点したようにぽん、と手を打った。それからふ と、わたしの傷口を思い切り押えた。 「――――ッ!!!!」  言葉にできない痛みで、悲鳴にならない悲鳴を上げる。息だけが鋭く、ひ ゅ、と喉で鳴った。  傷口が、痛む、痛い、あつい、熱い熱い熱い熱い――――。それは何分に も何時間にも感じた。実際は数秒だったのかもしれない。  気が狂いそうだ、と思った時、すっと痛みが引いた。「……ぇ?」未だに 荒い息を吐きながら、わたしは男を見た。男は感情の読み取れない不思議な 笑みを浮かべながら、わたしの「傷」から手をどけた。わたしはおそるおそ る、そこに視線をやる。 「なんで」  自然に疑問が口から滑り落ちるように零れた。  そこには、「傷」なんてなかった。  わたしの血液だけが、服の破れたあたりに大量に付着しているだけ。わた しはもう、声をだせなかった。どうして、ばかりが頭に浮かんで答えが一向 に出てこない。体を起こすこともできず、ただ呆然と男を見ていた。 「キミさ、ココの住民?」  頷く。男は笑みを深めた。 「キミは実に興味深い。名前は」 「……わたし、は」  その笑みは、背筋を凍りつかせるようなぞっとする笑みだった。薄っぺら い、嘘で塗り固められたような笑み。それだけでも凶器になるような、鋭利 な視線がわたしを射ぬいていた。  何者かもわからない存在は、わたしの忘れかけていた恐怖を引きずり出す。  生きるか死ぬか、わたしは選択を強いられていた。 「わたしは、」
7. vacant...
 世界はクズでできている。  そう言ったのは誰だったっけ?わたしもひどく同感だ。クズのはきだめが この世界、この星、この地表。そのクズはヒト科の動物だ。知能を持つこと は実にすばらしいとどこぞのペテン師が唱えるが、わたしはそうは思えない。  あー、クズばっかだ。そんなこと思うわたしも相当のクズだ。  知らないことは何にも代えられない恐怖だが、知ることも恐怖である。 「オルクス、さん」  呟く。男は奇麗に微笑して、「何?」と返してきた。その笑みこそ、疑い 深いものはない。  そうしてこんなことになったのだろう、と頭のなかで考える。もちろん表 情には出さない。少しでも余裕を見せると話しかけてきそうだったからだ。 正直この男は苦手だ。そもそも一度殺されそうになったのに、好感を抱くは ずがない。 「そう怖がらないでよ。キミが知りたいことを教えてあげたいだけさ」  黒塗の車を走らせているのは、男だ。名前はオルクス、というらしい。 「何のことか、理解しかねます」 「おや、『彼』について知りたくはないかい?」  ――――息が、止まるかと思った。  きっと今、わたしは目を見開いて固まっていることだろう。頭ではわかっ ていても、硬直はなかなか解けなかった。それほどまでに、オルクスの言葉 は破壊力があった。 「あなたは、彼の、なんなんですか」 「んー、別に俺がどうってことはないんだけど。一言でいえば、ビジネスパ ートナーかな」  俺よりも、もっと彼を知るものを知っていてね。と、オルクスは車を走ら せる。もう、どれほど走ったのか。仕事以外は外に出ないが、全く見たこと のない土地にまで来ているようだった。ふと、現在地を書いた看板がぶら下 がっていた気がして、あわてて目で追うが、車の速度が速くてしっかりと見 えなかった。 「俺さ、魔法使いだから」  バックミラーに映る、オルクスの顔は至極真面目だった。それに、わたし は「あ、そうですか」と間抜けた返事を返す。だって、そうだろう。傷が一 瞬で治るなんて、どんなマジシャンにもできない。手品には種があるのだか ら。 「それでまぁ、とある会社の社長してるんだよね」 「はぁ」 「OPLって知らない?」 「はぁ…………は、え?」 「あ、知ってるんだ。そこの社長やってます。よろしくね」  知ってるもなにも、OPLと言えば、今、裏世界のメディアの目を最も集 め、同時に最も恐れられている組織ではなかったか。なんでも、とあるサイ トから依頼を受け、『人殺し』をする組織だとか――――。 「彼は一応、俺の組織の社員なんだ。それでさ、暗殺とかやってもらってる わけ。今日はそれについて話をしに行ったんだけど、留守みたいだったね。 仕事かな」 「……たぶん、そうかと」 「うん。それで、キミが気になったんだよね。ほら、あいつあんな性格だろ? まさか女がいるなんて思わなかったから」  遊びの女なら、何も言うことなく殺してたけどさ。と、オルクスは苦笑し た。そして、灰色の目がミラーごしに、わたしの姿をとらえる。どこか、そ の眼差しは、不思議とやさしいものだった。 「キミは、そうじゃないみたいだね」 「…………答えかねます」 「はは、確かにあの性格は捉えづらいからね。まぁ、地道に慣れていってあ げてくれ」  まるで、自分の子をよろしく頼む的なことのようで、わたしは暫く目を瞬 かせていた。それから、気を取り直して、「つまり?」と先を促す。 「もう、後戻りはできないってことだ」  オルクスは車のスピードを上げた。そこから、2人は口を開くことはなか った。死ぬか生きるか、虚無的な事実がずっしりと、わたしの首をもたげた。
8.*〜a coad
 広い空間に出たのは、スラムの地下へ車が入って、しばらく経ったときの ことだ。大きな扉に、キーボードのような数字と文字が書いてある板がまず あって、オルクスはそのキーボードのようなものを慣れた手つきで打った。 暗証番号なのだろう、とわたしは勝手に解釈した。  それから「オルクス=ブローディア=タナトス」と、扉の前でオルクスが 呟くと、扉から女性の機械的な声が発せられた。 「ID、声紋確認。扉が開きます」  驚いて後ずさると、オルクスは声を押し殺して笑った。そして演劇のよう に大きく腕を広げて言い放つ。 「ようこそ、わが社へ――――」  扉が開き、その奥のシャッターが3つ開くと、スラムでは考えられないよ うな、清潔な眩しい床の白色が視界に広がった。思わず声をあげる。 「すごい……!」満足そうなオルクスは、踵を返してその中を進んでいった。 わたしもそのあとに続く。2人が入ると、扉は勢いよく閉まった。  それからは、機械的な冷たい廊下が続いた。眩い蛍光灯に、ここが地下だ ということを忘れてしまいそうだ。廊下を歩いて行くと、ときどき扉が右に あったり左にあったりしたが、オルクスはまっすぐ歩いていく。 「ここ、ここ。入って」  言われたのは、10分ほど歩いて、エレベーター2回ぐらい使っただろう か。その後だった。  扉が、ひとつ。  オルクスは躊躇いもなく(自分の敷地なんだから当たり前か)ノブを捻り、 ドアを開けた。わたしが入ると、オルクスも続くように入った。普通の書斎 のような部屋。今までがだだっ広い場所であっただけに、もっと馬鹿みたい に金を使った部屋かと思ったのだが、そうでないようだ。  そこには1人、先客がいた。長ソファに座る影。 「レヴィー、連れて来たよ」 「ん?ああ……はじめまして、お譲ちゃん」  妙齢の男は、やわらかく微笑んだ。どうやら隣に立つ男より、常識がある らしい。レヴィーと呼ばれた男を観察していると、あることに気がついた。  髪は、少し白髪が混じってしまっているが、濡れたような漆黒。瞳は、澄 んだ翠色だった。 「――――あ」  そう、その色は、彼と同じ――――。 「あの子の親はね、俺の兄なんだ。俺はオルクスの補佐をやってる」  わたしの疑問がわかったように、男は先に言った。どうしてこの組織の人 は、こうやって躊躇いなく破壊力のある言葉を口にするのか。でもああ、そ うか。と納得がいった。オルクスより、彼を知っている人。でも、だったら 両親はどこへいったのだろう。 「仕事でヘマをして亡くなってね、俺が父親みたいなもんさ」 「それで、わたしには……その、何の用なんでしょう」 「君はあの子がやっていること、知らなかっただろう?」  でも知るべきなんだ、キミにはその義務がある。  男の言うことに、わたしはぐっと息が詰まった。確かに、知りたかった。 彼の秘密にしていること、気になってしかたのなかった。でも、それを彼の 許可なしに調べていいものなのか。それを知ったら、わたしは彼に見捨てら れるのではないのか。  そもそも、あの屋敷にいれる資格なんてあるのか。 「彼はOPLに所属して、働いている。もともと生まれたところがこんなと ころだったからだろう、あの子は感情が欠落しがちだ。でも今、俺は君と話 している。これは、俺にとってものすごく俺しいことなんだ。――――なぁ、 オルクス」  いきなり話をふられたオルクスは、苦笑しながら大袈裟に肩をすくめて 「息子自慢はほどほどにしてね」と独りごちながら、男の隣に疲れたように 座った。 「ちなみに、あの屋敷の機械さ、俺が作ったんだよ。設計したっていうほう が正しいけど」  彼が外で何をしているのか。(それはこの組織で仕事をこなしていたから)  彼の屋敷はなぜあんなに機械があったのか。(それはこの一見?気そうで 鋭い、よくわからない社長の資産だから) 「君は、彼がこの組織に所属しているのを知って、新しいものを知って、何 か変わったのか?」  わたしの中で、もう答えは決まっているのだ。2人とも、それを知ってい る。わたしは何も言わず、2人の座る、前のソファに腰かけた。  ――――資格なんて、いらないのだ。
9.落、堕、墜
 覚えているのは、躊躇いもなく離された体温。ただそれだけ。わたしが記 憶している、母のすべて。  最近わたしは夢を見る。記憶を写し取ったその夢は、わたしが覚えている ところまでをくるくると繰り返す。ぼんやりとしか覚えていない両親の、あ まりいいとはいえない記憶を。  もうすでに、彼らの顔は覚えていない。名前も、髪型も。  でもこんな夢を繰り返し見るうちにだんだんと昔のことを思い出してきた。  うっすらと残っている、捨てられるほんの数日間の記憶。たしか突然病気 で父が死んで、おかしくなったのだった。発狂した母はわたしを理性の糧に した。わたしを殴り、世の中に対してのやつあたりを全てわたしにそそいだ。  だからといってわたしは母を恨みはしなかった。憎くもなかった。わたし にとって、彼女はそれだけの存在だったのだろう。それでも、母親と思って 暮らしていた、のだと思う。  あの日までは。  あの日、わたしと母は珍しく普通の親子がするように手をつないで買い物 に出た。ひさしぶりに出た外に、わたしははしゃいでいた。そんな中、母は 急にわたしを路地裏に連れて行って、内緒話をするような声で言った。 「私は買い物にいってくるから、ここで待っていなさい」  ――――それきり、母は帰ってこなかった。正直な話、遠出していたので 道を覚えているわけなく、わたしはそのまま置いてきぼりにされた。捨てら れた。わたしを手放したいと、もともとそう考えていたのだろう。  その日から、わたしは変わった。わたしは、空腹でまず店のものを盗った。 でもそれはあまりにデメリットが多すぎる。何度も同じ店にはいれるわけが ないのだ。わたしは人を襲った。もちろん老人や気弱そうな女ばかりを狙っ てだ。    その路地を拠点にして襲う場所を転々としながら、何年か過ごした。  それでも、それでもわたしは満たされない。    ある日。わたしと同じ境遇の大人が、わたしを見ていた。値踏みするよう な視線が、わたしの心を乾かす。知らずと喧嘩のしかたも覚えたわたしは、 暴力を周りにひけらかしていた。痛みはなれていたし、わたしは強かった。 だからだろう、彼らはわたしに復讐にきた。  わたしは、ナイフを持った――――。 「――――ッ」  わたしは、ばっと体を起こした。  ああ、またか。と半ば諦めにも似た言葉が頭をよぎる。冷汗が米神を伝う。 心臓の音が耳にまで届きそうなぐらい脈打っている。ふとベッドサイドを見 ると、――――彼がいた。  彼は目を丸くして、いきなり飛び起きたわたしに驚いているようだった。 わたしも驚いた。どうして彼がここにいるんだろう。彼は今日仕事があると 言っていたのだが。 「嫌な夢でもみたのか」 「ええ、ちょっとね……。あなたはどうしてここに?」 「簡単な仕事すぎてね。君に任せようと思って来たんだけど、そんな様子で は無理か」 「ごめん、なさい」 「いいさ。そんなときもある」  彼は子供にするような優しい手つきでわたしの頭を撫でた。「どんな夢を みたんだ?」と、落ち着いた声音が問う。わたしは答えたくなくて、彼から 視線を外した。その行動が彼の気にさわったのだろうか、彼は不機嫌を露に した。美しい顔がさらに、その表情を冷たくしてみせる。  しかたなく、わたしは呟く。独り言のように、彼を見ずに。 「……あなたに会う前のときの記憶の、夢を見たの」  夜毎、繰り返される夢は終わりが見えない環を描いている。繰り返し、繰 り返し、『あのとき』わたしが堕ちたのをあざ笑うかのように。追い詰める かのように。 「何度も繰り返すの。もう、見たくなんてないのに望んでもないのに」  あのとき、いったい堕ちたのは何だったのだろう。その答えが見つからな いことこそがわたしの罪の表れ。もう終わったことなのに、もう忘れたいの に、もう思い出さなくてもいいのに。わたしを蝕むその夢は、終わらない。 忘れられない。思い出す。  何が嫌なのか自分でもよくわからない。ただわたしはそれを拒絶する。  暫くの間、重苦しい沈黙が下りた。 「こっちを見ろ」  言われて彼を見る。翡翠色の目が、静かにわたしを見ていた。その目には もう、怒りは表れていない。いつものように、わたしの好きな、ただただ静 かな翠があるだけだ。 「安心しろ、俺は、お前を見捨てないから。俺とお前は似てる。そこらへん の兄弟よりずっと、ずっとね」  俺は拒絶しないから、できないから。と彼は苦笑する。ああ、そうだ、と わたしはやっとのことで笑みを浮かべる。彼もわたしと同じように、壊れて いたんだったと――――。  優しくわたしの髪をなでる手が暖かくて、思わず涙を零してしまった。哀 しくて?彼の言葉が嬉しくて?そんなことわからない。けれど、多分。  もうきっと、あの夢は見ない。
10.間
 男は、白い男に問うた。 「なんでお前、あの子に構ったんだ?」  別に放っておいてもいいだろう、と男は呟いた。そう、これらは『彼女』 たちの問題であり、俺は関係ないものだ。しかし、それは同時に『俺たち』 のせいでもある――――。白い男、オルクスは唇を吊り上げた。純粋に困っ たように、目を細めた。 「まったく、なんで、なんてよく訊くね」 「……かわいそうな子たちだよ」 「おや、キミもそうだろう?ここにいるものたち、すべて被害者にすぎない のさ。戦争と同じだよ。誰も悪くなんてない。そう考えるのは、奇麗事にす ぎないのかな。なんてね」 「どうだろう。俺は、その言葉は嫌いじゃない」  黒い男、レヴィアルダは煙草に火をつけた。  点火したところから、細い煙が天井に上っていく。煙草を一度吸い、白い 息を吐いた。それは溜息か、ただの吐息か、よくわからない息だった。  そもそも、無知は恐怖そのものである。そして、愚かなことでさえもある。 何かに手をつけてしまったとき、知っていない場合にこそ罪は重い。オルク スは長く、重い溜息を吐いた。灰色の目は、どこか疲れた目をしていた。 「俺は人を変える何かが見てみたい」  それこそ金で動かすものじゃなく、恐怖でもなく。「昔は楽しさだけを求 めていたからね……俺も、アンタも」呟く言葉はどこか軽薄な響きを持つ。 そして続ける。 「今は、」 「そうでないとでも?」  く、とオルクスは喉の奥で笑った。「否定はしないよ」 「レヴィー、アンタも気になってるんじゃないの?」  人の変化を。綺麗事なんか訊いてない、と呟けば、レヴィアルダは静かに 煙の混ざった息を吐いた。返事はなく、ただ沈黙がそれを肯定していた。オ ルクスは益々笑みを深める。 「知る権利、くらいあげてもいいだろ?」  リオルグは皮肉な笑みを浮かべる。 「あの子ももう、無関係じゃないからな――――」  もう、戻れはしない。
11.「constant change」
「ねぇ、魔法って信じる?」  リズは目を瞬かせた。    今日は彼がいない。仕事、と言っていたから、裏のことなのだろう。  あれから、わたしは彼に何も言っていないし、彼もそれを知っていて黙っ ている。ただ、最近こちらを見ていることが多い。その時はたいてい、何か 言いたそうな顔をしているが、わたしが「何?」と訊くと、なんでもない、 と誤魔化す。  そんな日々が続いていた。    コト、と小さな机に湯気の立った紅茶が置かれる。いい香りに、顔をほこ ろばせた。 「私は信じております」 「どうして?」 「魔法使いを、知っているから」  くすり、と、笑みを思わず零した。オルクスの事を言っているのだろう、 と想像がついたからだ。魔法は文学だ、とあの人は言っていたが、わたしは それを信じるしかない。 「わたしも――――知っているわ」  こう返したことに、少なからずリズは驚いていた。優しげな笑みをたたえ ているはずの顔は、わずかにこわばって、おそるおそるというように口を開 いた。 「あの方に、お会いになられたのですか」 「ええ」  カップを傾け、紅茶を口に含む。いつもどおり、おいしかった。 「面白い方ね。賢い人は嫌いじゃないわ。ただし、賢すぎる人は好まない」 「ふふ、そうですね……天才というものは他人に理解されないものです」  天才、というよりもあれは鬼才に近い。あの灰色の目は、いったい何を 見て、何を考えているのか到底想像もつかないような。まるで同じ人間で ないようだ。 「色々知ったわ。わたし、なんにも知らなかったから」 「そんな、あなたはただ」  あわてて取り繕うように言うリズがおかしくて、ほほ笑んだ。もう一口、 紅茶を喉に通す。 「あなたを責めてるわけでもないし、悲観しているわけでもないの」 「でも、あなたがいることで、彼は救われました。今も、昔も」 「いいえ、救われるわけがないわ。彼はなにも、知らない」 「……?それは、どういう……」 「何も知らないのよ。わたしが知っている事を、彼は知らない。だからね ――――もう少し、早く知ることができたのなら、何かが変わったのかもし れない」  リズは顔を俯かせた。亜麻色の髪が、彼女の頬を覆う。表情が、見えなく なった。きっと、リズはもっと早く教えるべきだったと後悔しているのだろ う。でも、その心配は杞憂だ。わたしは、知らなかったことを別段後悔して いるわけでもないのだ。  もっと違う結末があったのかも――――なんて、思ったりしているだけで。 「少し、眠いわ」 「後片付けはしておきます。ごゆっくりお休みください」  頭を下げたリズを背に、わたしは寝室にひっこんだ。  彼が変わったというよりも、きっとわたしが変わったのだろう。それを自 分自身で理解していた。これ以上考えるのは無意味でしかない。吐息を洩ら す。  自室のベッドに横になり、サイドに置いてあったMDコンポのスイッチを 押す。どこか悲しげなバラードがゆるやかに室内に響いていく。わたしは絶 対恋愛ものの音楽は聴かなかった、そして聴くつもりもない。  ――――今こうして想っていることが否定されているような気がして。 「わたしが救いたいのよ」  わたしがいることで変わるのでは限界がある。  耳には、やさしい音楽が聴こえてくる。控え目な悲しげなその音楽に、な ぜか胸がつまるような感覚を覚えた。もういちど、溜息を吐く。吸って、吐 いて。落ち着かせるように、静かに、ひどくゆっくりと。  今かかっている音楽はたいして有名でもないシンガーが歌っている歌だ。 ただすこし、気になってCDを買ってみた、それだけ。  スイッチをオフにする。ああ、だめだわ――――。  シンガーが切なそうに紡ぐ、もう時間がないの、と。  少し目を伏せて、天井を見上げる。ぼんやりと思い出すのは昔のこと。
12.mutable×inanimate
 数年前。 「仕事を手伝ってくれないか」  久し振りに帰ってきた彼はわたしにこう告げた。滅多に会うこともなかっ たが、彼に従うという行為はわたしにとって苦痛ではなかった。どちらかと いうと役に立てるのかもしれないという喜びに近かった。 「何の仕事?」 「人を殺せばいい。それだけ」  わたしは呆然とした。人を殺す、という言葉に驚いたのではなく、なぜそ れをわたしに回すのかということだった。今まで彼はすべて独りでやってき たのだと思うし、それは否定しがたい事実である。彼を見つめていると、不 機嫌そうにこう言った。 「嫌か」 「――――いえ、少し驚いただけ」 「少し?」 「ええ……わたしは別に罪の意識は感じないもの」  たとえ対象が子供であっても、女性でも、老人でも。  今までだってそういう人間を襲って暮らしてきた。それを嫌だといえば、 今までのわたしが否定するのは、わたし自身と、それに伴う犠牲者だ。わた しはその行為を否定する気はさらさらなかった。だってそれで何かを感じる ほど、わたしは何かを持ってるわけでもなかったからだ。 「そう、か」  彼は一言、そう返しただけだった。    そこは無言の空間だった。  わたしはその沈黙を重いと感じるわけでもなく、そこに突っ立っていた。 臓物の臭いが鼻をかすめて、わずかに吐き気を誘う。むせかえるような臭い の中、わたしはナイフを手にしてぼうっと突っ立っていた。こんなに嫌いな ナイフを、あんなに好きな人のために使っているという矛盾について、とり とめのないことを考えていた。 「終わったのか」  ふいに背後から聞こえた彼の声にゆっくりとした緩慢な動きで振り向く。  そしてわたしは目をみはった。彼に悟られない程度に、ほんの少し目を見 開く程度だったが。  外は雨で、その中を歩いてきたのか、彼はずぶぬれだった。ぽたぽたと髪 から滴が床に落ちていく。服も重そうだった。だが、そんなことに驚いたの ではない。翠の目が、まるで泣いているように見えたからだ――――。  それは絶対にただ、雨の滴が頬に伝っただけなのだろう。  でも、わたしはそれが泣いているようにしか見えなかった。いつも無感動 なあのさみしい瞳に、何かが見え隠れしていた。何か言いたげに、見えた。  そのとき、わたしはこの「仕事」について唐突に理解した。  彼は孤独だったのだ。  彼は血塗れの私を、骨が折れるかと思うほどきつく抱き締めた。その口か ら何かが語られることはなかった。雨水と血液が混ざって、床に染みを広げ ていく。  ――――まるで、わたしと彼が同じものであるというように。  わたしもまた、何かを語りかけるほど高慢ではなかったし、空気が読めな いほどの馬鹿でもなかった。ナイフを床に落とし、冷え切った彼をひかえめ に抱きしめ返す。それに、ありったけの思いをつめて、伝わるようにと。な ぜか少し悲しくなって、一筋だけ涙が零れた。
13.そして無
 いつからだったんだろう、人を手にかけても何も感じなくなったのは。最 初に殺したときか、それとも彼に出会ってからなのだろうか。どちらでもい い、今はそれがひどく重く感じる。人の可能性を根こそぎ奪う行為について。  綺麗事なんか並べる気はないし、自分の身が一番かわいい。だけどそれ以 外に大事なものができて、なおかつ考える時間があった場合――――。こう いうことを考えないほうがおかしい。  それは彼も同じだろうか。いや、それはないだろう。  彼が裏の世界に関わっている、なんてことは最初から知っていたし、気が 狂っていることも知っていた。その目がどこかさみしそうに見えるのは、き っとわたしの目がおかしいのだろう。他人からみれば、眉ひとつ動かさない 殺人人形でしかない。 「ねぇ、なんでわたしを拾ったの?」 「前にも訊いたね、その質問」  わたしの目が、ただひとりをとらえる。どうせ殺されるならわたしは彼が いい。  掃き溜のような場所から、あんなに動けないと思っていた場所なのに、い とも簡単にすくい上げてくれた彼に。それがただの好奇心であっても、気ま ぐれであっても、わたしがすくわれたことには変わりがなくて。 「俺によく似ていたからさ。だから君が好きなんだよ」  その言葉は、わたしに小さな悲しみを落とした。その心が嫌なのではなく て、ただ――――、  彼の世界はとても広く、そしてとてもとても小さかった。  わたしの世界はとても狭く、そして彼よりわずかに大きかった。  知らずと、目頭が熱くなって、それを知られたくなくてわたしは俯いて目 を閉じる。わずかなズレは、同時に大きくもある。それはどうしようもない 埋めれない溝、越えられない壁。  ああ、ならばそれを壊そうか?  どこかイカれた考え方も、すでに当たり前になってしまった。 「ねぇ、わたしが好きなら、わたしを殺して見せて」  口から零れるように出てきた言葉は、静かな室内に嫌に響いた。後ろにひ かえていたリズが、わずかに身じろぎしたように感じた。わたしは、ただ彼 の眼だけを見ている。彼は何かを言おうとして、その後まるで何を言うのか 忘れたかのように、閉口した。  彼は机の上に置いてあった果物ナイフを手に取る。林檎を切った果汁がつ いたソレを、わたしに向ける。それを、わたしは怖いとも思わなかった。む しろその行為は光栄であった。  ナイフは、そこから動かない。時間が止まったように、動かない。  わたしは、彼を安心させるように、精一杯微笑む。少し歪だっただろうか、 いや、そんなことはないだろう。わたしは今、これ以上ない至福を噛みしめ ている。わたしは今、きっと彼よりも狂っている。 「あなたを人間にもどしてあげる、フェイト」  彼の名前を初めて呼んで、ぎゅ、と抱きついた。同時に鈍い感覚があし先 から脳天まで突き抜ける。自分から彼にこうやって触れたことがあっただろ うか。そんなことを思いながら、  足もとが崩れ落ちた。  フェイトは呆然と、床に倒れた私を見ている。そこから動かないナイフに は、真っ赤な液体が生々しく滴り落ちて。そんな光景を、まるで第三者が見 ているような感覚で見ているわたしがいた。 「リン」  初めて、フェイトもわたしの名前を呼んだ。空気を震わせた声は、絞り出 すような弱弱しげな声。東洋からきたこの忌まわしい、かつて両親がつけた 名前を。それさえも、フェイトが言うとなんて美しく甘美に聞こえるのか。  から、と金属音をたててナイフが落ちた。わたしの血だまりが、床を侵食 していく。ぼやけた視界が、フェイトの眼を捉える。わたしは、この目が好 きだった。腐った世の中にはないような、純粋な闇でしかないその瞳が。で も――――、でも、それは間違ってる。間違っていたんだ。  だから、この人形みたいな人間に、感情を思い出して欲しかった。何か、 大切なものを少しでも思い出して欲しかった。  この上ない充実感が、わたしを満たしていた。意味のない時間を過ごした、 幼い頃の虚無感とはまるで違う、満たされた気持ち。腕をのばして、しゃが みこんだフェイトの頬に手を添える。それから触れる程度のキスをした。  そこに甘さのかけらなどはなく、まるでちょっと前に聴いていたバラード のようで。 「リン――――、」  ツ、と彼の頬に光に反射して、銀色の糸が伝った。  わたしはきっと、このために生まれてきたんだ。  それを見て、やっとわたしは瞼を落とした。 Back?