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「ねぇ、貴方嘘を吐いてるでしょ」


 
 ランプの橙色の明かりが、小さな室内をぼんやりと照らしだしている。淡い光が、質素な造
りの、必要最低限しか置いていない家具の輪郭を浮かび上がらせていた。
 小さな部屋に、2人の男女が、影を落としていた。
 女はラフな普段着を身にまとっている。寒いのか、コートを着込んでいた。絹のような薄茶
色の髪に、切れ長の髪と同じ色の瞳。紅く薄い唇が印象的な女性だ。ソファにもたれかかって、
デスクワークをしている男を見つめていた。静かに静かに、邪魔だけはしないように。

 喪服のような真黒なスーツを着た、染めたばかりの茶色い髪をした男は、パソコンの画面を
見ながらキーボードを叩いている。静かな部屋に、カタカタというタイピングの音だけが響い
ている。そんな男に、珍しく女が声をかけた。女が見る限り、いつも無表情な顔が歪んだと思
ったら、その手を、ふと止めた。

「何のことだい?」
「あら、知らないふりかしら」
「君の言葉が足りないんだよ」

 女は机の上に置いてあった、空のグラスを持って器用にくるくると回した。
 薄茶の目を細めて、きれいに微笑む。

「私は嘘なんて聞きたくないわ。それが悲しい嘘でも優しい嘘でも、嘘は嘘に変わりないもの」

 その嘘が、女の心を寂しくさせているということを男は知らない。
 理解もし得ないだろう。今も、これからも、ずっと。
 
 男は女を愛していた。
 それだけの事実は確かだった。
 

「ねぇ、貴方はココが息苦しくないの?」
 

 男が逃げ込んだ小さな、小さな廃屋。電気類はそこらへんから盗んで使っている。ぼろぼろ
になった壁は、今にも崩れそうで、ときどき隙間風が寒い。女は訊いた。この狭い部屋が、息
苦しくないか。逃げ続けるその足取りが、だんだんと重くなってきていることを女は知ってい
た。

「苦しい、と言ったらキミは助けてくれるのか?」

 女は悠然と、微笑んだ。
 赤い唇を、ゆっくりと開く。そして細く、白い手がコートの中にのびる。その小さな手には、
鉄の塊が握られていた。鈍色に輝く、一丁の拳銃の銃口を男の脳天に照準を合わせる。

「ええ、助けてあげるわ」

 男は疲れ切った顔に、わずかな笑みを浮かべた。
 それを救いとしているかのように、嬉しさを滲ませて。
 それに対して、女はその顔を一瞬、苦渋に歪ませた。幼さを残したような顔に不似合いなそ
の表情は、本当に一瞬のことだった。男はそれに気づいているのか気づいていないのか、微笑
んだままだ。

「私、貴方が苦しんでいるところは見たくないの」

 凛とした声が、廃屋に響く。
 女はゆっくりと、銃口を下げた。安全装置をカチリ、とはずして、手に持ったまま男を見る。
 男は嘘を吐いていた。
 女を苦しませないための、嘘。助けるための嘘を吐いた。
 女はそれを知っていた。自分が身売りの危険に晒されているということを。男はそれから救
うために、富という名の楽園から遠ざかっているということを。そのパソコンのデータの中を
見た女は全てを把握していた。女は嘘を吐いていた。
 男もそれを知っていた。男は女を売ることを商売としていた。そんなことでもしなきゃ生き
てられなかった。そんなとき、この女とであったのだ。巨万の金を目の前に、男は商談を打ち
切って逃げようとした。自分たちを知らない場所を求めて。だが相手が悪かった。
 そいつらは、男を追っていた。
 何かのグループだったのだろう。夜毎、2人は息をひそめて眠る。
 見つからないように、殺されないように。
 
 暫く沈黙が下りた。
 それを破ったのは、女の方だ。女は今までになかったほど、優しく微笑んだ。

「でもね、貴方を殺すこともできないわ」

 だって好きだもの、と女は言う。居場所のない男にとって、女と逃げ切るという希望だけが
心の救いだった。しかし、もうその夢は追えないことが、どちらにもわかっていた。世界に、
2人の見方は存在しなくなったからだ。だから2人は心のどこかに諦めることを渇望していた。

「だからね、思ったの。これが一番良い方法なんじゃないかって」

 女は男が静止しようとする暇もなく、その鈍色の凶器を米神に――――、
 空気を裂くような音が、部屋に轟いた。
 真っ赤な花を宙に咲かせて、女の華奢な体は傾いでソファに沈んだ。ごろん、と拳銃が古ぼ
けた床に落ちる。真白なソファはじわじわと赤が侵食していった。やがては床へ、男のもとま
で。
 男はその光景をぼうっと見つめる。そして、女の元まで歩み寄った。

「これが、キミの答え?」

 自分で笑えるぐらいに、情けない声で、返事が返ってこないことがわかっていながらも、問
う。
 そのとき男が理解した。
 今まで女の為を思って吐いていた嘘が、女にとってどれほど辛いものであったか。
 男は茫然と、どこかやすらかな顔をしている女を見つめていた。女の、赤くなった頬を撫で
る。だんだんと、温度がなくなっていく様に男も目を瞑った。
 どこからか、あの銃声を聞いたのか『やつら』の足音が聞こえてくる。

「もう、大丈夫だね」

 男は深紅の床に落ちたそれを手に取る。
 その顔に、これ以上ない至福の、しかしどこか悲しげな笑みを浮かべて――――、
 
 闇夜に、もうひとつ銃声が響いた。
 
 いつか女に言った、「大丈夫だよ、もう少しだから待っていて」なんて嘘を最期に思い出し
ながら。
 



 黒ずくめの男たちは言葉を失った。
 彼らが見たものは、深紅の中に沈んだ、どこまでもやすらかな笑みを浮かべて死んでいる、
重なった2人の体。