一個体を表す定義



 



 兵舎には、大きな兵士用の食堂がある。


 男が多いせいか、汗臭いし、決して綺麗ではないが、うまい料理が評判の騎士用の食堂。
王城のシェフが作るわけではない。栄養面を考えられる、食堂用の職人数人がいつも忙しく
動き回っていた。


 紅蓮は珍しく、外の酒場へ行かず食堂で食事をとることにした。尤も、それは正午にすぐ
鍛練があるためだ。外まで出て行っては、時間が足りない。日替わりメニューを食べ損ねた
な、なんてのんきなことを考えつつ。


「……?」


 紅蓮が食堂に顔を出すと、賑やかなはずの食堂が静まり返った。
 自分が好かれているとは思ったことがないので、たいして気にせずに、料理を注文する。
食堂の職員も、興味深そうに自分を見やっていた。あまり食べる気にならなかったので、詠
泉で有名な冷たい麺料理を注文した。席について、麺をすすっていると、ぼそぼそと周りが
囁き始めた。


「あいつだよ、紗理隊長を負かしたヤツ」

「あれって女だろ?まじかよ……」

「実は男とか言わないだろうな」

「どうすんだろ、隊長。あんな危ないの置いておくのかよ」


 聞こうとしなくても聞こえる内容に、紅蓮はそういえば、と昨日のことを思い出した。
 
 あれから、お互い打ち込み――――あれは殺し合いに近い。数刻打ち合い、隙を見て紅蓮
が素早く懐に潜り込んだ。不意をつかれた紗理はバランスを崩し、そこに紅蓮が刀の背で紗
理の腹をなぎ払った。


「ぐ……っ」


 着地した後、体制を戻そうとした紗理ののど元に、素早く刀を突き付ける。冷徹な瞳に、
その場にいた全員が、紗理が殺されると思った。それとは逆に、あっさりと紅蓮は刀を鞘に
戻した。ちん、と金属音が沈黙の中でいやに響いた。


「本気でやってくれないの」


 他には聞こえないような声で言う。紅蓮が見た限り、紗理は本気で打ってこなかった。少
なくとも、殺す気ではなかっただろう。そして紅蓮も殺すつもりはなかった。それが技量を
低減させる。少し不満だった。彼は苦笑した。


「お互い様だろ」

「まあ、言えてる。不満だけど」

「次は本気でやってみたい」


 囁くように、彼は低く言った。紅蓮は紗理に手を差し伸べる。紗理はナイフを鞘に戻し、
その手を取ってゆっくりと起き上った。


「怖い人だ」








 お互いが本気ではなかった――――それがわかった人はそこにはいなかったらしい。
 
 これは紗理の株が下がったな、と思いつつ否定することは何も言わない。これはこれで、
後の紗理の対応が面白いのではないか、と考えた。自分でも嫌な性格だとは自負しているが
――――水を飲むことで笑むのをごまかした。もくもくと咀嚼して、あっという間に食べ終
わった。黙って食器を食器洗い場に押し付け、部屋への道をたどった。

 その腰に下げてある刀からは、漆は見えなかった。
 








 
「休み?」
 エリアスが騎士団に入って、そろそろ一週間が経とうとしている。季節の変わり目らしく、
すこし肌寒くなってきた気がする。よく晴れた午後、紅蓮は出かける準備をしていた。


「休みってどういうこと?」


 全く分からない。というように首を傾げる、まるで幼い子供のような動作をするエリアス
に、紅蓮は呆れた。ばかだなあ、と口に出す前に喉で止めて見せた。


「此処は寮制だけど、毎日勤務をするわけじゃないよ。実際、戦がない限り兵士の仕事は見
回り、城の門番、見張り、どっかの隊長さんがため込んだ書類整理ぐらいしかない。だから
兵士が多すぎて余るんだ。まあ戦争に向けてだから仕方がないんだけどね」

「それもそうだけど」

「だから、一週間に一回、何十人かずつ休みがある。そっちのほうが効率的でしょ?」

「じゃあ、紅蓮は今日お休みなの?」

「いつもは部屋で寝ているか、本を読んでいるか筋トレするか。今日は街へ買い物に行くつ
もり。足りないものもあるしね」

「そういえば、私が初めて此処に来たとき本を読んでいたわよね。あれは任務が終わったか
らじゃなくて、休暇だったの?」

「あれは昼休みだよ」


 ほとんどサボりだけど、というのは言わないことにした。


「本なんていつでも読めるじゃない。今度買い物行こうよ」

「休みが重なったらね。読みたいのなら貸すよ?」


 紅蓮が投げてよこした、話の流れから察するに丁度一週間前読んでいた本をエリアスは落
とさないように慌ててキャッチする。もっとも、紅蓮が狙いをエリアスの胸あたりにしたた
め上手くキャッチできたが。

 
「……」


 エリアスはずっしりと重い分厚い本の表紙を見て眉を顰めた。


「なにコレ?」


 表紙には、見た事もない文字でタイトルが書かれていた。続け字のような、うねるような
線の上下に点がついていたり、十字のように線がはいっていたりする複雑な文字だ。中身を
ぱらぱら開いて見ても、見た事もない文字が羅列しているが、挿絵に載っていた天使の絵か
ら見て神話か何かだろう。


「見て解らないの」

「いや、読めない。これ何語?」

「……読めない?」

「読めないわ。なにかしら……私たちが使っている文字にも似ているけれど。貴女は読めるの?」

「あー、そうだった、読めるはずないよな」


 しまったと頭をがしがし掻いてうなる。エリアスは不思議そうに首を傾げたまま。


「これさぁ、古代エルアニス語、なんだよ」

「は?」

「だから、古代エルアニス語」

「……ちょっと待って?何?はあ?」

「その耳は飾り物だったんだね……かわいそうに」

「違うわよ!」

「じゃあ何度も聞かないでよ」

「私が聞きたいのはそんな事じゃなくて」


 あーもう!と頭を抱えてしゃがみこむエリアス。


「何で貴女が古代語を訳して読めるか。って事を聞いているの」

「ああ、そのことか」


 紅蓮はエリアスの手から本を奪い取り、表紙の優雅な筆記体で赤い文字の、紅蓮い
わく古代語で記された『神々の詩』というタイトルを人差し指で撫ぜた。大切なもの
を扱うように、優しい手つきで。


「お前の家に養子にもらわれる前に、本で覚えたんだ。あの頃はすごく暇でね」

「そんな本あるの?聞いたことないわ」

「……エリアスは質問ばっかりだ。少しは自分で考える事を覚えたほうがいい」

「うるさいわね。どうせ私は頭悪いですよーだ!」

「そうやって開き直るのもどうかと思う」

「そんなことはいいから」早く教えろと好奇心に満ちた眼差しで促されると、嫌な気
分にもなれなくて、紅蓮はため息をついて「説明ばっかり面倒臭いんだけど」と愚痴
りながら説明を始めた。



「本がたくさんあったんだ。私が前住んでいたところには、物語とか説話集そんなも
のがたくさんあるところでね。暇だと呟けばいくらでも与えられた」


 懐かしむように、しかし物憂げな顔で紅蓮は言葉を紡ぐ。


「へえ……紅蓮の家はお金もちだったのね」


 少しほっとした。
 彼女は、どんなところに住んでいたのか、どうして養子に来たのかとは訊かなかった。
昔から、彼女は引き際を見極めている人間だった。今までそれを訊かれたことはなかっ
た。これは彼女の長所だ。エリアスは、あえてその質問をしない。こちらが言うまで、
訊かないつもりだろう。


「どうだか……私が見た本全部は何百年も前の本であったせいか全て古代語で記されて
いた。昔は世界全土で古代語を使っていたからだと思うけど。今は何故か使われていな
いようだね。だから幼かった私はまず、現代文ではなく、古代文を覚えたんだ。だから
私は古代語で記された本が読める」


 誰も、教えてくれなかった。何も教えられなかった。
 そんな中で知ることができるのは、本というものだけで。昔の事を思い出しかけて、
紅蓮はゆるゆると首を振る。エリアスの目を見ると、どうにも好奇心がおさまらないよ
うな眼をしていた。それを見て心の中で苦笑する。


「じゃあ、紅蓮みたいに昔の本を読んだ国民も古代えるあぬす語を解読できるの?」

「エルアニスね。……まあそうなる」

「私も昔から読んでたらなあ」


 エリアスは頬を膨らませていた。こんなもんあっても学者にならない限り役にたたない
よ、と言えば、それもそうか、と呟いていた。




「それよりさ、名前変えないの?結構浮いてるよ、その名前」


 この咏泉には、泉文(センブン)という文字を主とした原住民からなる泉人(センニン)
と、北の中立国ウィーズから移住してきた北人(ホクニン)がいる。クリスやエリアスは
ウィーズから来ているから北人だ。おかげで名前のニュアンスが違う。

 移住してくると、ほとんどがその名前を泉文にするが、どうやらクリスたちがそうして
いないようで、この国では少し目立っている。紅蓮ももともとは泉人ではないが、不自然
を拭うために名前を変えた。


「やっぱり、こっちのほうが私っていう感じがするから。母さんもそう言ってた」

「そう。それだったら、それでいいけどね」


 特に名前に執着心のない紅蓮はどうにもわからない理由だったが、気にしないことにし
た。彼女たちがそういうのなら、そうなのだろう。
 さて、と紅蓮はウエストポーチを身につけ、部屋の入り口に向かった。


「もう行くよ。せっかくの休みを誰かさんへの説明だけで終わらせたくないからね」

「うるさいなあ。早く行きなよ」


 遠まわしに頭が悪いと言われた紅蓮は頬を膨らませて、犬を追い払うように手を振った。


「はいはい。言われなくとも行きますよ」




 やっぱり、昔からエリアスをからかうのは楽しい。







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