空に溶けるアイデンティティ







「なあ、人間は飛べると思うか?」

 もう20過ぎにもなる、大の大人の男が呟いた。
 わたしは僅かに眉をしかめて、その問いが無意味であることに落胆した。

「飛べるじゃぁないか。飛行機が飛んでいる」
「ああ、レオナルド・ダ・ヴィンチはもうすでに飛行機の仕組みを理解して
いたらしいな。素晴らしい」
「この前のテレビ番組でやってたな、そんなことも」
「ダヴィンチは天才だ。だからこそ人々に理解されず、恐れられた」
「人は異質を嫌うものだよ」
「君も?」
「いいや?」

 話がそれていく。

 穏やかな午後。大学の食堂は人っ子一人いない。なぜならわたしたちは講
義を抜けてきたからだ。

 彼が大事な話がある、と言ってきたので仕方なく抜けてきた。だが、この
会話はなんだろう。悩みに至るまでの戯言か、それともそれを訊くためだけ
にわたしを呼び出したのか。それはわからないことである。彼は昔から不思
議な人だった。そんなところが気に入って、今も付き合っているのだが。
  彼はしまりのない顔をしながら続ける。


「でもな、亜季。それは人間が飛んでいるんじゃなくて、機械が飛んでいる
んだ」

「あたりまえじゃないか。もしかすると君は、鳥のように空を飛びたいと言
っているのか」

「そういうつもりで最初から話していたよ」

「最初からって……」


 くだらなすぎて、思わず噴き出した。
 ヒトが飛べないのは、進化の過程上不可能なことだ。何をいまさら、とわ
たしは笑った。しかしそれはユーモアには程遠い。


「少しナンセンスだね、その話は。意味のないことだ」

 もうこれ以上話す気はない、とばかりに冷たいコーヒーを飲むと、彼は静
かに笑った。それから溜息ひとつ落とす。それは落胆でもなんでもなく、至
福のときに零すような甘い吐息だった。
 おや、と思った。彼が珍しい、何かに拘るような目をしていた。こういっ
た時の彼は、なにかとわたしに面倒なことを運んでくるので、あえて私は何
も言わなかった。だってそれもわたしの楽しみだったのだから。今度は何を
言ってくるのか、それが楽しみなのだ。打てば響く、といったように、彼は
何かを問いかけると、必ずといっていいほどよくわからない答えを返してく
る。これは一種の才能で、病気のように感じる。


「じゃぁ俺が飛んでみせるよ」
「馬鹿馬鹿しい」
「本当さ。俺は自由に空を舞ってみたい」
「君の言ってることは矛盾しているよ。自由なんて考え方ひとつで変わる」
「そうだな、自由はルールという規則があってこそ在るものだ」
 

 でも、俺はそれを変えてみたい。

 これは随分とおかしなことを言ってきた。わたしは大概ルールにとらわれ
ているが、それを不自由に感じたことはない。不自由がなければ自由だ、と
も、解放感がある、とも感じないからだ。


「飛びたいの?」
「捉え方による。なあ、鳥って解剖したことあるか?それと同じだ」
 

 ますます、わからない男だ。
 話が飛ぶところも彼の才能なのだろう。実に飽きない。だけど今回ばかり
は、わたしは彼の言うことが分かってしまった。長年の付き合いのせいか、
それともわたしも――――、
 そうだと思いたくはなかった。できるならば前者で、そしてわたしは、彼
を止めるべきだったのだろうか。それこそ無意味だ。わたしはゆっくりと目
を瞑って、また彼を見た。相も変わらずま抜けた顔をしている。


 
「じゃぁ、飛んで見せて。わたしに君の自由を見せて」
 










 
 3日後の水曜日。なんで水曜日だったかは知らない。彼にとっては何か意味
があったのかもしれない。


 わたしは口元に笑みを浮かべる。溜息にも似た吐息を零す。それもまた、3
日前の彼と同じような、甘い吐息だっただろう。

 彼は飛んで見せた。わたしの前で、まるで自分が誰よりも自由なのだとでも
いうように、笑みを浮かべて。それはさながら、無邪気な子供のようで。


「ああ、君はなんて素敵なんだ」


 囚われることが嫌いな彼は、円環から外れた。

 フェンスの向こう側。

 冗談だったのか本気だったのかは知らない。
  そこでバク転をして、風を一身に受けて――――、
 



 ほら、飛んで見せた。
 

 飛ぶの意味が違うよ。ああ、でも一緒か。そんな言葉さえ、君の前では無意
味なのだった。誰かの悲鳴さえも、君の前では歓声でしかないのだろう。
 



 そう、彼は天才だった。


 そして、ルールの中の一番の馬鹿だった。
 何より、誰よりも自由になりたかったのだろう。