そうして後ろを見ることなく





 水がなみなみ入った水筒、身をすっぽり覆う外套に、サイズの大きい帽子。
リシェルにもらったハンティングナイフ、財布、地図、携帯食糧、大きめのリ
ュック。旅装束に身を包んだキルシュは、忘れものがないかどうかしっかり確
認した。黒ベースの地味な外套は、母が作ってくれたものだ。髪を団子状にく
くり、その上から帽子をかぶる。


「忘れ物はない?」


 背後からリシェルが声をかけた。「ないよ」と返して、自分の部屋を見回し
た。なんだか変な気持ちだ。この馴染んだ部屋を出ていく、というのもなかな
か寂しくなるものらしい。ナイフを腰のベルトに引っさげ、リシェルの方を振
り返った。彼女は笑いながら、じゃあ父さんと母さんに挨拶しなきゃね!と明
るい声で言った。心中は、わからない。寂しがってくれると嬉しい。


 
 ダイトの挑戦を受けてから、キルシュは飛躍的に成長した。体力面でも、だ
が、知識面も補ったつもりだ。食べられる植物、食べられない植物はすべて頭
に入っている。傷にはどの薬草が効くのか、なども把握した。外の世界で生き
ていけるぐらいには成長、したつもりだ。おそらくそれは今後活かされていく
ことだろう。いつの間にかタコができた手を見て、苦笑した。


 キルシュに負けてからのダイトは、それはもうひどいものだった。俺も歳だ
な、と気落ちしていたのを慰めた母はやはり偉大らしい。



「ねえ、キルシュ」

「なに?」

「ほんとはね、私たち反対するつもりはなかったのよ」


 何を、と訊き返そうとして口をつぐんだ。茶色い目が、あまりにも真剣だっ
たからである。


「あんたの性格知ってたしさ、でも、親父は反対したかったんだと思う……危
ないしさ。あたしも、ほんとは村から出てほしくないよ。あんまり、邪険にし
ないであげてね」

「わかってるよ、あの人素直で可愛いよね」

「あんた、言うようになったよね」


 リシェルが腰を曲げて笑った。それがなんだかおかしくて、キルシュも笑っ
た。

  帰ってくるよね、と訊かれた言葉に、キルシュは勿論帰ってくる、と言った。
どんなに時間がたっても、どんな状態になっても、ここに戻ってくるつもりだ。
ここが自分の、家だから。


 存外、自分の気分が高揚していることに驚いた。寂しいのと、でもこれから
が楽しみなのと。これから何を見れるのだろうかと。


「変な人についてっちゃだめよ?お金渡されてもだめ。特に男ね!連れてかれ
そうになったら急所を蹴とばすのよ!それから、それからね」


 早口で続けるリシェルは、俯いていて表情が見えない。のぞきこもうとした
ら両手で目をふさがれた。どうしたの、と訊く前に、小さな聞き取りにくい声
が聞こえた。


「寂しくなったら、帰ってきてもいいんだからね」
 
 
 さみしい、


 そう感じているのは多分、キルシュよりリシェルのほうだろう。申し訳ない
気持ちよりも、自分が必要とされている、という喜びの方が大きくて、自分よ
りやや低めの身長の姉を抱きしめた。

 その後、母と父に会いに行くと、これ以上ないほどに抱きすくめられて、し
まいには父は大声で男泣きしてしまった。うるさいその声につられて村人も集
まってくる。いろんな人が優しく声をかけてくれて、近所のおばあさんはお小
遣いをくれた。少し泣いた。


 村のはずれまで歩いて、振り返った。



「いってきます」

 

 外套を翻して、歩き出す。なんだか荷物が重くなったが、足取りは軽かった。
もう振り向かないと決めた。


 強めの風にゆれる、金色の前髪を人差し指でなでた。人間では普通いない、
と言われる忌み色。それをきれいだ、と言ってくれたのはリシェルで、それを
認めてくれた人々。家を出る前に、母にこっぴどく言われたことを思い出す。


「絶対、帽子を取ってはいけない。一番近くの街で、髪の色を染めなさい」


 この色に執着がなかったのかといわれると、答えにつまる。しかし、生きて
いく上で、あの村を出た上で、それは必須の事柄だった。他人に攻撃されない
ための、唯一の方法。エルフと同じ、というだけでだ。自分より外の世界へ出
ているダイトも忠告してくるのだから、事実だろう。なんてひどい事実だろう
か。
 人間もエルフも似たようなものじゃないか。お互いがお互いのものを壊しあ
う。違う、なんて言える口ではないのだ。どちらも手をお互いの種族に染めて
いるくせに。




 ここから一番近い街、といえばローランド皇国の中のジェリダンだろう。

 といっても、2、3日はかかってしまう。平原を超えなくてはならない。食
糧にはまず問題がないだろう。携帯食糧は多めに持ってきてあるし、2日3日
ぐらいなら水さえ飲んでいれば死にはしない。


 どのぐらい歩いただろう、と街道の横に生えている木にもたれかかって座っ
た。日は落ちてきて、だんだんと夕焼け空になってきた。足にまめができたの
か、ブーツの中でむれたのか、痛い。それでも、外の世界はきれいだった。初
めて見る景色、初めて感じる香り。

 リュックの中から地図を取り出し、広げる。



「だいたい3分の1ぐらいは来たかな……」

  
 優しく風が頬をなぜる。汗ばんだ体に、ひんやりと心地よかった。
 そろそろ野営の準備もしなきゃいけないな、火はどうしようか。と、ぼんや
りとしていると、いつのまか意識が薄れていった。心地よい眠気に任せるよう
に、木に全体重を委ねた。少しぐらい休憩してもいいだろう。










 
 白い、夢を見た。


 
 目前に、延々と広がるのは白だけ。他にはなにも、ぼやけて脳が確認しよう
としていないようだった。その白をくりぬいたように浮いた、色のついた存在
がいた。キルシュは、知らずと微笑んだ。


 そこには少女がいた。自分と同じくらいだろうか。それよりも大人びている
ように感じる。腰まで伸びた髪は白く、瞳の色は空色。白い肌に赤い唇が人形
のように目立っていた。ノースリーブのワンピースも白い色をしていて、回り
と同一化しているかのような印象を受けた。


 少女は赤い唇を柔らかく吊り上げて、蒼い目を優しげに細めた。

 可愛らしい容貌は、本当に精巧に作られた人形のよう。

 彼女は床か壁かもわからない白の空間を歩くようにして、キルシュの前に立
った。そして両手で頬を覆う。少女の行為に驚いて、キルシュは口を開こうと
したが何故か体は思うように動かなかった。
 少女は綺麗に微笑んだまま、戸惑うキルシュと視線を交わらせ、言葉をつむ
いだ。


「私は、ヴァリアンテ。やっと逢えた……やっとあそこから出てきたのね」


 まるで音のような、よどみのない美しい声だった。でもだからこそ、無機質
な。これは、一体自分の何を知っているというのだろう。


「あなたの、名前は?」


 少女がこう問うたことで、やっとキルシュの発言が許されたかのように言葉
を発することができた。ただ、思っているような「ここはどこだ」とかいうも
のではなく、素直な、ヴァリアンテと名乗った少女への答えが口から滑り出た。


「……キルシュ」

「きれいな響きね、キルシュ」


 ふわり、と少女がキルシュの体を包んだ。抱きしめられたのだ。それは優し
く、突き放すこともできたがキルシュはしようとしなかった。暖かい、夢だ。
嘘みたいな温もりと懐かしさを感じる。これは、私のものなのだろうか。戸惑
いさえ覚える既視感。
 

「私には、あなたが必要なの」


 どうして、と言おうとしたが、また己の声は何かに妨げられる。少女は切望
するような、懇願するような、掠れる悲痛な声音で続けた。


「助けて。私を。あのヒトを、全てを、助けて」

「…………ぁ、」


 あの人って誰。誰のために泣きそうになってるの。

 今にも泣き出しそうな声の少女をなんとか慰める言葉を言いたくて、無理や
り声を出そうとするが、それは情けない声が出ただけに留まった。その様子に
気づいたらしいヴァリアンテが、緩くキルシュの頭を撫でて少し体を離した。

 ヴァリアンテの頬には、一滴、涙が伝っていた。口元には悲しげな笑み。
 どうして泣いているの、とも聞けないこの夢がはがゆくて、もどかしい。


「お願い」


 ヴァリンテはキルシュの手を握った。狂ったような、優しいような、悲しい
ような願望。純粋な狂気、愛情。大人びているのに、小さな子供のような不自
然さ。だからこそ彼女の言葉も姿もひどく幻想的で、儚い。

 物語の一説を語っているようで、心に直に響くよう。
 知らずとキルシュの蒼い瞳からも涙が零れ落ちた。

 何を思ったのか知らない。気づいたら、いつの間にか頬に伝っていた。嫌だ。
嫌だ。そんな否定の言葉ばかりが脳を支配していた。何が何かも理解できない。
温もりを拒絶するように、少女の腕を振り払った。


「還さない」


 初めて自由にすっと声が出た。同時に体も動いて、少女の頬に伝う涙をキル
シュ自身の服の袖で拭う。すると少女は信じられない、といわんばかりに眼を
見開いた。そんなに自分自身で動くことが驚くことなのだろうか。


「私は生きて、死にたい」


 それはどちらの声だったのだろうか。すべてが輪郭を失ったように曖昧にな
ってきた。ただ、少女の悲しそうな顔だけは、鮮烈に目に刻まれた。それと同
時に、ぱっと心臓が熱くなる。息が苦しくなって、どうしていいかわからなく
なる。


「……時間切れ、だよ」


 耳を澄まさないと聞こえないぐらいの小さな声音。
 言われた瞬間、がくりと膝が折れた。そのまま体は傾いで倒れていく。視界
の端に捕らえた儚げな少女が、薄れていく。否、自分の視界がぼやけていって
いるのだ。しろの世界が崩れていく。砂のように、消えていく。



 完全に見えなくなる、感じなくなる寸前に聞こえた、しっかりと頭に響く声。
 

「また、今度ね」
 
 
 








 は、と顔を上げると、もうすでに陽が落ちていた。気持ちの悪い夢だった。
なぜか嫌な予感を引き立たせるような、前にも見たことがあるような気がする、
夢だ。吐きそうになってもう一度、強く目を瞑った。

 本当になんなんだ、予言のつもりか。予知夢か。どちらにしろ必要がない。
汗ばんだうなじをなだめるように撫ぜて、大きく息をついた。


「しまった……野営の準備してない」


 がらがらがら、と大きな音が近づいてきた。見ると、商隊が馬車で2台、こ
っちへ向って来ているところだった。その馬車を運転している中年の女性が馬
車を止めて、キルシュを見た。


「アンタ、こんなとこで何してんだい?もう夜だよ、野営の準備もできてない
のかい」


 若いのにどうしたんだ、家出か、と女性は次々に訊いてくる。どうやら世話
焼きのようだ。馬車の中から、困ってるじゃないか。と男性の笑い声が聞こえ
た。どう答えたものかと、キルシュは曖昧にほほ笑んだ。それをどう取ったの
か、女性は大きな手を差し出した。


「……えーと」

「もしよかったら一緒に乗ってきなよ」

「いいんですか?」

「情はあるつもりさ!女の子を夜の街道にほっぽってくなんてことしないよ。
最近は物騒だからね」


 どうやら幸運の女神には見放されていないらしい。
 
 女性はラナと名乗った。後ろに乗っていた男性はロイド。家畜を売っている
らしい。馬車の中には牛が2頭いた。2人は夫婦で、商人をして生計を立てて
いるらしい。ローランドには、成人した娘がいる、と言っていた。

 幸せそうな2人の会話に、思わず帽子の柄を握って、深くかぶり直した。そ
れを見て、ロイドが疑問に思ったらしく、声をかけてきた。


「なんで帽子かぶってるんだい。病気か……?」

「いえ。ちょっと染め間違えちゃって。金髪みたいになっちゃったんですよ」


 我ながら動揺せずに言ったと思う。ロイドも納得したらしく、苦笑した。


「ちゃんと色混ぜないと。今エルフが乱暴してるからね……気をつけないとだ
めだよ。ローランドに入る時に検査受けないといけないからね、ちゃんと先に
言うんだ」


 今のご時世じゃ殺されかねない、と彼は言った。淡々と、事実を。ラナが後
ろを向いて、「怖がらせるんじゃないの!」と怒鳴った。ロイドはバツが悪そ
うに頭をかきながら、謝ってきた。キルシュは困ったように首を振った。


「いいんです、私も一応わかっているつもりです」

「ま、君は耳が尖ってないからね。これさえ見せれば大丈夫だよ。それに俺た
ちがついてるし」

「ありがとう……」

「いやこっちも拾った身だからね。まああのおせっかいな妻もどうしたもんか」


 ロイドが呟くと、前から「聞こえてるよ!」と返ってきた。キルシュが思わ
ず噴き出すと、意外なものを見たように目を瞬かせた。


「やっと普通に笑ったね」


 商人やってると、ヒトの表情に敏感になるものだ、と彼は言った。どうにも
複雑で、反応に困ったので、水筒に入れてあった水を口に含んだ。だいぶ乾い
ていたらしい。頭がすっきりしたような気がした。


「一応、この仕事も人の縁で成り立ってるようなもんだから、俺らはそれを大
事にしたいんだよね。だから、キルシュちゃんと会ったのもなんかの縁!恩と
か気にしなくてもいいんだよ。好きにしてることだから」


 ちょっとくさかったな、と照れ笑いするロイドに、ラナも同意した。

 縁を大事にする、何かそれは暖かい言葉に感じた。いくらくさくたって、そ
れは嬉しい言葉だった。でも、それでも彼女たちのような人はまれなんだ。そ
う考えると空しくなった。逆に考えれば、最初に会った人が彼女たちでよかっ
た。


「検問所通ったら、髪染める薬買わなきゃ」

「何色に染めるんだい?君だったら…オレンジか、茶色だな」

「どこに売ってるか知ってます?」

「ああ、ついでだ。向こうについたら案内してあげるよ。いいだろ、ラナ」


 ラナが頷いたのを横目にとらえて、キルシュは本当にほっとした。それから、
本当にくだらない話をした。自分の村のこと、ダイトのこと、旅の理由。ラナ
とロイドからもいろいろな話を聞いた。商売の話、娘の話…たくさんの話をし
た。一晩明かして、ゆっくりと馬は走って、もう1日経った。




 朝、ラナに揺さぶり起こされた。もうすぐつくよ、とささやく声に、飛び起
きる。馬車から下りると、丘の向こうに大きな門がそびえていた。もう夢のこ
となんて忘れていた。
 






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