それはナイフの切っ先によく似た、 「やあ、リドル。元気?」 廃墟と化した古城に、まだ10代後半であろう少年と、20代前半、もしくはそ れ以下にも見える男がいた。少年は風化してしまった、倒れている柱の上に足 を組んで座って、口には弧を描いている。ゆったりと流れる長い淡い水色の髪 を弄びながら、猫のように金色をした切れ長の目を細め、男を映した。 風が強く、2人がまとう漆黒のローブはばたばたと五月蝿い音を立てた。 「また来たのか。暇な奴だな」 男は感情の篭らない冷たく、その場の雰囲気を切り裂くような鋭利ささえ宿 す声を少年に発した。短めに切ってあっても風で顔にかかってくる漆黒の髪を 乱暴に払い、少年を半眼で睨む。右目の蒼色が、冷ややかに少年を射抜いた。 少年がこうして男の元にやってくるのは珍しいことではなかった。ただ無駄 話を一方的にして、帰っていく不思議な少年。ただ、少年は未来を見据えてい るかのようなことを口にするのだ。そして男のことを、教えてもいないのに知 っている。 「やだなぁ、そんな顔しないでよ。怖いじゃない」 「どの面さげてその台詞を言うんだ」 「ふふ、遠慮しないでよ」 「俺の話を聞いてないだろ」 ちき、と金属の重い音がしたと思うと、瞬間、少年の首筋には一本の細身の 両刃長剣が添えられていた。もう少し力を入れれば、その首には赤い筋が入る ことだろう。少年ははやし立てるように口笛を吹き、おどけたように肩をすく めて見せた。 「ねえリドル」 「お前に呼ばれる名などない」 少年の前に立ち、突きつけた剣は外さず、目を合わせる。 殺気の篭った視線に、少年は笑みを深めた。 「じゃあさ……こう呼べばいい?『混ざり物』ってさぁ?ねえ?」 くく、と喉で嘲笑する少年に、男は躊躇いなく突きつけた剣を横に薙ぎ払っ た。そのままなら血が飛び散り、首が取れるはずだった。それができなかった のは切られたはずの少年が、陽炎のように歪み、やがては姿を消したからだ。 「もう、やめてよ。ローブとれちゃったじゃない」 瞬間に男の背後に姿を現した少年は、模様のない黒基調の道化服を纏い、杖 をくるくると回し手で弄びながらそこにいた。さながらその姿は舞台衣装のよ うな黒装束。華美な色があるといえば手首や足首についている装飾ぐらい。銀 にも見える水色の髪は、その闇色に浮いていた。 「……奇術師が」 「そう、ボクは奇術師。そして道化師。人を楽しませ、欺く者。ボクはそのた めに存在し、そのために消えるのさ。ねぇねぇ、そろそろ君も、運命に従って みるのも一興じゃないかな。運命は変えられない。誰にも、そう、誰にもね。 君にしたらさ、そのほうが苦しまずにすむんだよ。リドル」 囁くのは甘やかな誘惑。 自らが傷つかずにすむ選択。 「……」 「アハハハハッ!そんな嫌な顔するなら、反論してみたらどう?まあ無理だろ うけどね……君なんかじゃ、無理だ。過去に囚われたままの君には、ね」 男は無表情のまま、剣を背の鞘に戻した。 少年は地面に杖をつき、どこから取り出したのかは不明だが、左手に持つ仮 面を宙に掲げた。その仮面は白地に、弧を描く両目、口。右目の下に赤い雫の マーク、左目の上に蒼い星のマーク。不気味な顔をした仮面だ。 それを顔にあてがうと、それは生きているかのように、止めるものなどない はずなのに、少年の顔に張り付いた。 「もうすぐ、だよ」 物語を詠うように、少年は紡ぐ。 「世界の崩壊は起こる。なぜかって?それはボクが生まれたからさ。それは変 えられない、事実。そしてボクも、『あの子』もそれを望んでいる。世界が憎 い、という破壊衝動。だから願いを叶えてあげるんだ。それが世界から与えら れた仕事だからね」 「何を馬鹿なことを」 「強き願いを叶えることこそボクの宿命(さだめ)」 「随分と詩的だな」 「元よりその存在こそが、だよ」 わずかに寂しさが混ざった言葉に、男は言葉に詰まった。 少年は笑い声を零して、 「この空の向こう側に、もうひとつ世界があるんだ。そこにいるのはそれより ももっと超越した存在。ボクもね、元々はそこから生まれたんだ。君も、いず れは赴くことになるだろうさ。彼女と一緒にね」 「彼女だと?」 誰のことだ、という意味を含めて視線を送っても、仮面をかぶった少年は喋 る事はなく、さらには仮面の所為で表情を知ることはできない。 ぽた、ぽた、と空から雫が落ち始める。それは銀の糸となって、地面を叩き つけ始め、水溜りに波紋を生む。古城に這う、ツタの葉に雫が伝い、落ちては 伝い、落ちては伝う。暫く気分も重くなるような曇天を見上げる。 一度目を瞑り、ため息ともとれるよう吐息を吐く。 そしてまた男は少年の居た場所に視線を向けた。 しかしそこにはすでに、その存在は居なかった。 ただただそこに、雨が降るだけ。 しと、しと、しと、しと。 静寂が乱れ、音楽を生む。不快ではない音に、男は目を細めた。 「ゼギル、お前は本当にそれを望んでいるのか……?」 小さく紡いだ言葉を、誰も聞くものはいない。 キルシュは呆然と目の前の光景を見ていた。 壁にぬりたくられたいろんな色のついた線、線、線。それは円を描き、模様 を描き、直線を描いて淡く光り輝いている。ただ、それは強い光ではない。つ まり、研究段階ということか。キルシュは一人で納得した。 キルシュがアルジュナに来て、半年経った。地道に努力し、知識も身につけ た。もちろんそれはアリスやリドル、シュトラムハゼルの協力あってこそだ。 リドルはどうやら、本当に自分を買っているらしい。ときどき顔を見せて、 世界の現状をペラペラと喋って去っていく。 最近は隣国の宗教国家とローランドが対立しているそうだ。リドルが出向い て穏便に終わらそうと画策したが、根っから思想が違うため、数日にわたる話 し合いの結果和平条約の書状に宗教国家――――マイセルの印は押されなかっ た。 それは必然的に戦争を意味する。その話を思い出して、背筋が寒くなった。 アリスはマイセルに情報を集めに行っているらしい。スパイといったところ か。未だに彼女の姿は見ない。大丈夫なのだろうか。 「これは魔術式ですね」 「わかるようになったか、小娘」 「勉強してますから」 シュトラムハゼルは皮肉げに笑った。それをキルシュは真っ向から受け止め るしかなかった。「戦争、か……」彼は感慨深げに呟く。 「きみは、戦争に行くのが怖いかい」 「ええ、怖い。とても怖いです」 似たような質問を以前にもされたな、と思った。最近は、悪夢を見ない。 「何が怖い」 「私が死ぬことが。殺されることが。殺す、ことが」 「そうか」 シュトラムハゼルは見つめていた魔術の理論を書きなぐった紙を、古ぼけた 机の上にそっと置いた。暇になった手で、自分の髭をなでつけながら、言う。 「私も、もう忘れてしまったな。そんな恐怖なんて」 「恐怖を、忘れるのですか」 「いいや、恐怖ならあるな。私はバレンシアが死ぬのがひどく恐ろしい」 きょとん、とキルシュは目を瞬かせた。シュトラムハゼルは情が移ったとで もいうのかな、と思い出すように眼を閉じていた。どうやら、彼はまた痩せた ようだ。キルシュは鍛練によって筋肉がほどよくついてきた自覚があるが、シ ュトラムハゼルはどうも、やはり歳にはかなわないらしい。 リドルが言っていた「シュトラムハゼルが生きているうちに魔術式は完成し ないだろう」ということは本当なのだと実感した。 今キルシュは、彼に知識を乞いに来ていた。彼ぐらいしか、訊けなかった。 アリスはいないし、リドルになんてとても訊けない。他の人たちにも。戦を目 の前にしている人に、訊けるわけがない。 「バレンシアはね、昔共に戦った友なんだ。あのときは私も若くてね、ほら、 いろいろ反発したりしたけれど、どうも私も彼の目に魅かれてね。いつの間に か一番気にかけていたよ」 リドルは本当に何十年も生きているみたいだ。確かに、リドルの目には引力 がある。人を引き付ける魔力だ。強く、揺らぎがない、迷いのない目。だから あんなに冷たそうに見えるのか、と今になって思った。 「リド……バレンシアさんは、ハーフエルフでしたよね」 「そうだ。あいつはそれをいっとう、劣等感に感じている……あれも、哀れで あるのだ。人間と同じように生きながら、エルフを厭いながら、しかし大切に 思った者たちは先に死んで行く」 エルフにもつけず、人間でもない。心を開いた人間は自分より早く息絶えて いく。その瞬間をいくつもいくつも見ながら、あれも少しずつ変化していくの だ、とシュトラムハゼルは言った。 それは、キルシュが聞くには重すぎる内容に感じた。そんなことを聞いては、 リドルを見る目が変わってしまうじゃないか、と。迂闊なことを言えなくなる じゃないかと。そんなことを言っても流せるほど、リドルはきっと強くプライ ドが高い。 「支えてやりたいが、この魔術式が完成するまでに私は」 その先を、彼は言わなかった。 キルシュも、聞きたいとは思わなかった。 「ああ、そのネックレスつけているんだね」 「はい。ありがとうございます」 「いいや、リドルと私がきみの近くで教えられないせいもある。気にするな」 キルシュはゆるく、首を振った。「あなたの、後継ぎはいるんですか」今度 はシュトラムハゼルが首を振る。否定。ここで、自分がする、といえるほどキ ルシュは魔術を熟知していない。かといって、リドルが魔術の研究に籠れるほ ど、今は暇な時期じゃなかった。 キルシュだって肌で感じる。 ぴりぴりとした感情。未だ戦闘要員でない自分への嫉妬の目線。お前は殺さ なくてもいいんだ、平和なんだ、弱音を吐くな、気が散る、暗にそう言う目が、 冷たく、たくさんの目が射抜いてくる。 戦争がはじまるのだ、と感じていた。それでシュトラムハゼルに質問をした。 彼が素直に答えてくれたのも、それが近いからなのだろう。 黙り込んだキルシュを見かねてか、シュトラムハゼルは柔和にほほ笑んだ。 「少し休みなさい。……時間も、必要だ」 殺すことってなんだろうか。死ぬことってどうして怖いんだろう。 (でも当たり前だ、だって私は生きている!) 人を殺すことの覚悟を決めなければ、ならない。後で後悔するのは、戦場で の侮辱だ、といつかアリスから言われていた。でも、それでもだ。一番怖いの は、人を殺しても何も思わなかった時の自分自身なのだ。 水くみ場で、顔を洗う。まだ太陽は真上にあった。肌寒いな、と考えて、後 ろを振り向いた。「うぇ!」息が詰まった。 「り、リドル……」 「どうした、ひどい顔だ」 眼帯の下は、いったいどうなっているんだろう。そんなことを考えながら、 特に何も、と答えた。それだけでは彼の満足いく答えにはたどり着かなかった のだろう。質問を変えた。 「何か言われたか」 「気にしないよ、そんなこと」 「お前は変なところで無関心だな」 「あなたに言われたくない」 青い目から目をそらした。心の底まで見透かされそうだったからだ。そんな 不安さえ抱くほどに、背筋が冷えるほどの威圧感。だいぶ慣れたものだ。目を そらしたことで、ほっとしていたが、次に彼から出される言葉に目を剥いた。 「2人、殺された」 「……え」 「偵察に行っていた者だ。1か月後にはローランドからマイセルまでの荒野に 陣を組む。ローランドに、宣戦布告がなされた。俺たちが出ないわけにもいか ない」 「アリスは!?」 「ここにいるよー」 アリスがリドルの後ろから、ひょっりと顔を出した。ほっとした。アリスは ごめんね、こんな時期にそばにいてあげられなくて、と囁いた。 「無論無事。どうする、お前は。行くか?」 リドルは挑発するように言った。 どきり、と動機が激しくなった。どうしよう、どうしよう。そんな事を考え ながらも、答えは出ているのだ。じわ、と変な汗が手のひらから出てきた。緊 張、に近い。それを不思議に思いながらも、リドルを見上げて視線を合わせた。 「行く」 「それは、よく考えてか」 「うん」 リドルは目を伏せた。それからまた、揺るぎない青が、青を射抜く。低い声 が、厳かに呟いた。 「お前が迷えば、俺が切り捨てる。心の準備はしておけよ」 この目にアリスは魅かれたのだろうと思った。 戻る? 進む?