自然と暮らす村






 久しぶりの温かい空気に、ほっと息を吐いた。ふわふわと精霊たちが歓迎す
るようにキルシュの周りを舞う。雪がまとわりついてくるようだ。




 キルシュは今、エヴァンに帰郷していた。


 リドルがローランドを落としてから、半月。もう年号は1202年に移り変
わっていた。早いものだ、あのハーフエルフに会ってから、もう2年も経って
いた。
 その関係も、随分と変わったが。上司と部下、という関係ではないのは確か
だ。今までと反して、リドルと会うことは、なかった。それをいいことに、キ
ルシュは空間転移の魔術を覚え、エヴァンに戻ってきていた。もちろん、研究
は続けるつもりだ。だから、それを伝えるために戻ってきた。今まで音沙汰も
なかったから、家族は心配しているだろうか。


 キルシュの広くなった世界の中で、こじんまりして見える村は、泣きたくな
るほど懐かしかった。


 畑の間を歩いて行くと、隣の家のおじさんがキルシュに気付いた。それはも
う、驚いた顔で数秒、こちらを見つめていた。それは信じられない、といった
顔で、思わず笑ってしまった。つとめて明るい声を出す。茶色い髪でも、彼は
キルシュのことが分かったようだった。忘れられてはいなかった。


「久しぶりです、おじさん」

「ちょ……!キルシュ、ちゃんかい……?本当に?」

「はい、心配させてしまったみたいで、ごめんなさい」

「…………!」


 おじさんは声にならない声を上げながら、家の方に走って行った。「キルシ
ュちゃんが帰ってきたぞ!」と叫びながら。近くの家から、何事かと村人が覗
く。キルシュと目が合うと、そろいもそろって叫び声をあげた。


「キルシュちゃん!こりゃダイトに知らせないと!」



 おばさんたちがキルシュを痛いぐらいに抱きしめて、数人は父さんや母さん
を呼びに行ったようだ。生きててよかった、と心の底から思った。






 息を切らしながら走ってきたリシェル、父さん、母さんの顔を見たら、なぜ
か涙が出てきて、止まらなかった。今度はリシェルがキルシュを抱きしめる。
「生きててよかった!」祈るようなかすれた声に、キルシュも抱きしめること
で返した。生きてて、よかった。むしろこっちがそう思った。


 怖かった、悲しかった、悔しかった、痛かった、つらかった、
 戻ってこれて、よかった。


 それを伝えるのに、どれだけ苦労しただろう。父さんも母さんも、泣きなが
らキルシュを抱きしめてくれた。しゃくりあげて、子供のようにぐずった。誰
かが言った。「つらい思いをしたんだな」その一言を聞いて、どうだろう、と
考えた。

 確かにつらかった、それでも、それだけではなかった。
 国の残酷さも垣間見て、魔術のことも知った。種族間のいさかいも。
 人を殺すのなんて初めてで、怖くて気持ち悪くて吐きそうで、鍛練なんか気
絶するほどつらくて、のんびりした時なんて、数えるほどだった。だけど、そ
れは全て、自分で決めてやってきたこと。罪悪感はあるのに、驚くほど後悔は
なかった。










 今までの疲れが出てしまったのだろう、ほっとして、子供のように泣き疲れ
て眠ってしまったらしい。目が覚めると、夕方だった。
 2年前と同じ天井。古ぼけた小さな家。木と、土のにおい。ベッドから起き
上がると、旅立ったときのままの部屋を見ることができた。掃除してくれてい
たのだろう。目立った埃はなかった。

 そっと靴を履いて、部屋を出る。居間には家族全員揃っていた。


「キルシュ、おかえり」

 
 3人が笑って言った。キルシュも笑って「ただいま」と返した。2年ぶりの
彼らは何も変わっていなかった。変わったのは、自分のほうだった。









 旅はどうだった、と訊かれて、キルシュはうなった。一体どこから話せばい
いのか。どこを話していいのか。それでも、家族には知っていてもらいたい。
とりあえずローランドのことから話した。


 ハーフエルフに会ったこと、
 魔力の制御ができなくて街を壊してしまったこと、
 その後ハーフエルフが率いる組織に入って戦ったこと。
 かいつまんで戦争の話もした。
 自分がどう思ったか、つらかったか。何を手に入れたか。
 シュトラムハゼル、という師の後を継ぎたいということも。


 たくさん話した。今までリドルにも、アリスにも話せなかった気持ちを全部
ぶちまけた。3人とも、真剣に聞いてくれた。


「じゃあ、ここから出ていくのね?」


 リシェルが寂しそうに訊く。


「ううん、一度行ったことがある場所に移動できる魔術を覚えたの、だから、
いつでも会いに来れる……会いに来てもいい?」

「ばか、当たり前じゃん!」


 嬉しくなってリシェルに抱きついた。ああ、懐かしい。柔らかな空気、自然
のにおい。まるで、戦争なんか起こってなかったように、ゆるやかな時間の流
れの村。


「俺も、母さんも心配したんだからな。2年も帰ってこないから……」


 ダイトが死んじまったかと思った、と言った。大きいかさついた拳が震えて
いた。申し訳なくなって、俯く。会いたいと思ってくれていたのは、相手もだ
った。嬉しくて、また泣いた。久しぶりの、家族での会話。空気。


 帰りたくない、と考えたとき、はっとした。


 帰りたくない、と思うなんて――――まるで、アルジュナが自分の帰る場所
になってしまっているようで。なんとなくリドルを思い出した。今頃クーデタ
でも起こっているだろうか。それとも疲れて逃げ出したのだろうか。今度は何
と戦うのだろうか。
 彼は、一体何をしたいのだろうか。




「いつまでここにいられるの?」


 母が優しくキルシュの頭を撫でた。今日はみんな、スキンシップが多い。そ
れさえも嬉しいので何も言わないが。


「とりあえず、リドルの様子が分からないから……明日には行くつもり。でも、
ちゃんと今度は日をとって帰ってくるよ」

「そう、じゃあ、今日は泊っていくのね!お母さんが腕をふるって豪勢な料理
を作ってあげる!リシェルも手伝ってね」

「えええ、まだキルシュと話したいんだけど」

「そんなの寝る前にできるでしょ、早く早く!」

「はーい……キルシュ、楽しみにしてるのよ!」








 うん、と頷いてから、居間にはダイトとキルシュだけになった。暫く、静か
だった。父が何か言いたいときは、こちらを見ながら黙るのだ。キルシュは何
が言いたいか大方予想がついていたが、辛抱強く待った。暫くして、言いづら
そうに、ダイトが口を開いた。


「……人を、殺したか」

 
 感情を押し殺したような、かすれた声だった。そう、家族が心配していたこ
とは、何もキルシュ自身が死んでしまうことだけではない。その手で、人を殺
してしまうこともだった。人を殺すことは、どこに行ったって罪だ。今の時代、
戦争などで人を殺したとしても罪とはみなされない。だが、手を染めた事実は
どうあっても変わらない。


「…………うん、でも、後悔してない。だって、私が決めたことだから。そん
なことしちゃだめだって、分かってる」

「そうか、」


 それきり、暫く口をつぐんでいた。重くなった空気に、キルシュは細く息を
吐く。まさかいきなり本題に回ってくるとは思わなかった。ダイトは色々考え
ているんだろう。リシェルと母さんだって、そうだ。後悔してるだろう、キル
シュを旅に出したことを。キルシュ自身がどう思っていようと、過保護な家族
は、自分を責めるのだ。


「ご飯できたら呼んで、大木のところ行ってるから」






 逃げるように家から出た。 

 魔術で来たので、荷物を持っていない。心もとない気もするが、そうやって
警戒することもばかばかしく思えてくる。だってこんなに村は穏やかなのに。
村を見渡せる、はずれにある今も生い茂る大木の周りには、ふわふわと精霊が
舞っている。きっと、この木の精霊なんだろう。そんな気がしていた。だから、
ここに来ると落ち着いたんだろう。精霊が心を落ち着けてくれていたのかもし
れない。今だから、そう思える。
 










「?」


 ふっとかすめたにおいに眉を顰める。同時に視界のはじに火の粉が映る。
 けぶるにおい、これは人の髪が燃える異臭だ。はっとして村を振り返る。燃
えていた。赤々と、炎が村に覆いかぶさるように襲いかかっていた。木がみし
みししなる音、悲鳴、怒号、断末魔――――、


(なんだこれは)


 喉はひくついた。キルシュの足は棒になったように動かなかった。指先が震
えて、力が入らない。ひゅっと吸った空気は、血の臭いと物が焼ける炭の臭い、
火の臭いがした。気がつくとキルシュは業火の中にいた。むせかえるような熱
気。ぱちぱち、爆ぜる音。


 轟々と燃える炎の中から、ゆっくりとこちらに歩いてくる影が見えた。長身
の男だ。炭みたいに黒い髪に、尖った耳の、








「…………あ、?」



 気がつくと、キルシュはそこに棒立ちになったまま、村を見下ろしていた。
火の影なんかちっともない、今も悠然とある自然に包まれた村がそのまま、あ
った。風で葉が揺れてこすれ合う音だけが、その場で響いている。緑のにおい
が香っている。
 精霊がふわり、とキルシュにまとわりついてきた。まるで心を落ち着かせよ
うとしているようだった。


 心臓が激しく鼓動していた。汗が米神を伝って落ちる。キルシュはその場に
尻もちをついた。悪寒が背筋を駆け抜ける。なんだ、さっきのは。白昼夢にし
てはやけにリアルなものだった。それに、最後に出てきたのは。

 誰かが自分に魔術の干渉をしてきたのだろうか。それにしては、その気配が
見つからない。キルシュも随分と感知できるようになったと思っている。だと
したらさっきのは一体なんだ。ぎゅっとネックレスを握る。落ち着け、と自分
に言い聞かせる。数分そうしていると、だいぶ落ち着いた。さきほどの動揺が
嘘のようだった。




 紅く染まった村。

 キルシュには、どうにもその光景が――――、一度目にしたような気がして
ならなかった。








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