深淵で謳う
 序章





 まるい月が、闇に迷子のように浮かんでいた。
 周りの星がかき消されるほど明るく輝く月に、その小さな路地は淡く照らし出される。
人気のないスラム街に、独り、少女がいた。
 


「――――」



 暗闇の中から、呼ぶ声が聞こえる。それは少女の名前だ。抑揚のない静かな低い声。
耳に、というよりも頭に直に響く声だ。自分だけに聞こえる、声。それが誰のものであ
るか、少女はすぐに理解できた。もう幾度も聞いたことのある声だ。



 少女は薄く微笑んで、瞼を閉じる。
 その存在をより近く感じるために。



 ――――どうする?と声は問う。それは感情のない人形のような声のようで、奥には
何物にも代えられないような温かさがにじみ出るような。冷たさもすべてすべて含んだ
ような複雑な声音。


 冷えた夜気が、風に運ばれて頬を撫でた。耳が痛くなるほどの静寂が闇を支配する。
少女は何かを守るように、大切にしまうように自分を抱きしめた。そして皮肉めいた笑
みを浮かべる。それは何かに力を借りないと何かをやり遂げることのできない自分への
嘲笑だ。


 少女の力はあまりにちっぽけすぎた。いくら強くなっても、賢くなっても、その存在
は世界にとっては小さすぎた。だから、



「力を貸してくれる?」



 少女の目には、強い光が宿っていた。ひどく疲れ、憎しみや狂気に彩られた、鈍い光が。

 少女はその「名」を呼んだ。

 闇が、低く笑う。契約が、静かに結ばれた。
 





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