知らないの定義

  1


 

  ヒトは、世界を構築する、この世の理であり、そのすべてのものをエルドと呼ぶ。
 エルドは4つの国に分かれている。



 1つは西の軍事国家の帝国、ロストエイダス。
 1つは東の帝国と対立する共和国、咏泉(エイセン)。
 1つは帝国と共和国のどちらにもつかない北の中立国、ウィーズ。
 1つは共和国側の貿易国家リドラエルノ。



 1444年現在、ロストエイダスと咏泉は停戦状態にある。しかし着実に武装は
固められ、戦争を間近に控えていることは全ての国の国民だれもが知っていた。知
りながら、どうすることもできなくて、ただ怯えるように暮らしていた。




 共和国、咏泉。



 西に位置する王制国家、東に位置するロストエイダス帝国と敵対している国。咏
泉は環境がよく、四季があるため作物もよく取れ、餓死する人も冬もそんなに厳し
くないため凍え死ぬ人もいない。砂漠の多い帝国とは正反対で潤った土地だ。

 雲ひとつない、透き通るような蒼天に見下ろされた国の首都凌架(リョウカ)の
賑やかな城下町。
 




「あら、紅蓮(コウレン)。また来たの?暇ねえ」


 人が賑わう小さな酒場で、店主である妙齢の女性がくすくすと上品に笑った。優
しげな風貌にこげ茶の長い髪が印象的な、落ち着いた雰囲気をもっている。今着て
いるシックな服がよく似合う女性だ。泣き黒子はしっかり彼女をひきたてる役を果
たしている。


「昼休みなんだよ」


 紅蓮と呼ばれた少女は店主が座るカウンターを挟んだ、前の席に座った。
歳の頃は十八前後だろう。見ようによっては黒にも見える珍しい深い赤色をした、
無造作に腰まで伸ばしている長い髪に、それより少し明るい、黄昏のような瞳をし
ていた。

 少女は地味な黒のロングコートを纏っていて、コートには金の龍の刺繍。
 手にはコートと同じ色の皮製の手袋がはめていて露出は顔だけしかない。その上
の腰辺りにつけられた太いベルトに吊るされた東の国でしか製造されていない刀と
いう物の、普通よりも長めの太刀の刃が挿されている鞘が妙に印象を持つ。
 胸には銀の、華奢な造りの十字架のネックレス。少女が毎日身につけているもの
のひとつだ。


 この頃の少女が酒場に来るのは珍しいのだが、紅蓮はもうこの店の常連で、もう
回りの者も慣れてしまって見向きもしない。毎日と言っていいほど此処で昼食を食
べていく。それが少女の習慣だった。



「あんたこそ、店主のくせに酒飲んでいていいの?」


 歳と不釣合いなほど落ち着いた声で、呆れたように少女は言った。
 その視線の先は、店主の手に持つジョッキに注がれていた。ジョッキにはなみな
みと酒が注がれている。とくにこの店主には似合わない、とても不自然な光景だ。
店主はまた笑いながら、困ったように眉尻を下げた。


「そんなこと言わないでよ。人生の楽しみなの」

「呆れるなぁ。ばかじゃないの」

「あなたこそ、その歳で酒場に来るなんて珍獣より珍しいわ。外では評判悪いでしょ」

「否定はしないけどね。人と関わるのは苦手なんだ」

「あら、私とは?」

「あんた珍獣だもん」

「こら、怒るわよ!」


 笑って言うと、店主は眉を吊り上げた。酒の臭いを振りまかれながら怒っても怖
くもなんともない。どちらかというと息が臭い。酒もほどほどにしなよ、と来るた
びに言っているが彼女が飲んでいないところを見たことは一度だってない。

 紅蓮はおどけたように肩をすくめ、「いつもの頂戴」と注文した。最近雇ったら
しい若い女性店員が、紅蓮に水を差し出して元気よく返事をして奥の方へ駆けてい
った。
 


「最近どうなの」
 
「どうって、何」

「あら、知らないふり?王城のこと」


 頬杖をついて問う店主に、紅蓮はひとつ、ため息ともとれる吐息を零した。最近
彼女はたまにこれを訊く。近くに戦争が迫ってきているため不安なのだろうが、こ
の質問に少女は返事の返しようがない。
 想定していた通りの物言いに、内心嘆息しながら水を喉に通した。


「機密事項、だよ。別に普通、いつも通さ」


 紅蓮にはそれしか言いようがなかった。彼女は不満げな顔をしていたが、気にし
ない。しばらくすると、いつも頼んでいる定食が運ばれてきた。パン、野菜炒め、
シチュー。いつものメニューだ。
 しかしジュースが余分にあるので店員に聞いてみると、「常連さんのようなので」
とかわいらしい笑顔で返してきた。パンを行儀悪くナイフを使わずに手でむしりと
って口に含み、咀嚼する。


「いいのか、赤字だろ」

「いいの。あなたなら物騒なことが起こってもウチに来てくれそうだしね」

「はは、どうだかな」

「どっちかっていうと、私のほうが「いいのか」って聞きたいわ。こんな酒場にく
る女騎士、他にいないし。女騎士も珍しいのに。人付き合いもなければ、モテもし
ないの?」

「失礼なやつだなー」

「おかげさまで」


 二人が同じタイミングで噴出した。しばらく2人で笑っていると、店主はぼそり
と呟いた。賑やかというよりも五月蝿い酒場では聞き逃してしまいそうな小さな声
だった。


「本当、戦争なんて起こって欲しくないのにね……」


 先ほどまでは楽しそうに笑っていたのに、今度は寂しそうに力なく笑う。


「……」


 そう、確か、彼女は紛争で妻と子を亡くしているんだった。と思い出す。いつだ
ったか、だいぶ前に聞いたことだ。慰めるような言葉も気休めにしかならないだろ
うと思い、「だれでもそうだよ」と返した。
 むしろ慰めることなんてできないのだ。騎士という役職がら、ヒトを殺めるのは
自分の役目であって、同情するなんて馬鹿げている。それこそ生きていた者に対し
ての冒涜だ。責任を背負う必要が、ある。


「戦争が起こって欲しいやつなんて、よっぽど酔狂なやつしかいない。例えば地域
支配が大好きな王様とか、ね」


 紅蓮は無意識に皮肉じみた笑みを浮かべて、鼻で笑った。
 きょとん、とした後、店主は苦笑して、


「あなた、それ外では言っちゃだめよ。首切られちゃうわ」

「ご忠告、どーも」


 暖かいシチューを木製のスプーンで掬い、口に含むとやわらかい甘さが口内に広
がった。

 



 共和国咏泉を支える主体は、首都凌架に住まう王を守る騎士だ。王と国に絶対の
忠誠を誓った王直属の騎士団。選りすぐりの強い人材を集めたそれは、この聖王国
の盾であり最強の刃。今まで起こった戦争に負けた経歴がない。その強さは、国民
がこれからの国への期待、希望を見出している中に恐怖、不安を覚えるほど。


 もちろんいくつか軍はあるのだが、絶対的な力を持つ騎士団こそ国の主体となっ
ている。


 そこに、紅蓮は属していた。
 女騎士は珍しいもので、女が軍に入る場合大抵が医療班や物資補給員になるのだ
が、紅蓮はその『大抵』ではなかった。騎士の試験では紅蓮は己の実力を見せ、物
資補給員を除く騎士団で初めての女性兵士となり王城で一般兵士として働いている。
もちろん、書類整理も仕事のうちに入っているのだが。



 咏泉は豊かな国だ。


 だからこそ、かもしれない。一度たくさんのものが手に入ると、次が欲しくなる。
咏泉王は帝国の広い牧畜に向いた地域を求めた。王政は昔にくらべて国民に厳しい
ものになり、帝国との仲も悪化する一方だ。やがては、反乱が起こり破滅するだろ
うことが目に見えていた。



 

「そろそろ、潮時だろう」


 小さく呟く。嘲笑うかのような、吐き捨てるような声は、すぐに空気に溶けていっ
た。それが聞き取れなかった店主は、女らしくもなく音を立てながらシチューを飲
んでいる少女に聞き返したが、答えが返ってくることはなかった。それ以上、今日
酒場で紅蓮が口を開くことはなかった。


 こういうこと――――紅蓮が喋らなくなることはよくあることなので、店主はそ
れ以上追及しない。どうせ聞いても答えてはくれないことは雰囲気でわかるし、個
人のことを問いつめるほど、親しい仲でもなかった。


 
 ただ、そこにいるだけ。
 そんな不思議な関係。
 



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