体温で溶ける氷


 2


 



 酒場を出てからすぐ、紅蓮は城下町のはずれにある深い森の中の獣道を黙々と歩いて
いた。その足取りに迷いはない。手に地図を持っていることもなく、コンパスを持って
いるわけでもない。この道は、紅蓮にとって何度も通った道であり、絶対に忘れられな
い道だからだ。


 歩いて小一時間。今まで茂って空が見えなかった葉の隙間から光がこぼれているとこ
ろに来た。そこだけが切り抜かれたように、明るい。


 そこにあったのは、小さなログハウスだ。
 蔦が這っている古ぼけた家。一体いつ建てたものなのか。ところどころ風化してしま
って、ぼろぼろになっている。丸太には苔が生えてしまっていた。紅蓮の頬が柔らかく
緩んだ。



「ただいま」
 




 紅蓮を嬉々として迎えたのは、紅蓮の義理の母クリスだ。もともとはウィーズに住ん
でいたらしいので、東とは違うような名前である。もう40代後半だろう。以前見たと
きよりも目じりの皺が増え、鮮やかだった翡翠色の目はくすんでいる。白髪の増えた長
い金髪。それらは会っていなかった年月を語る。


「久しぶりね、紅蓮」

「……うん」

「まあ、座りなさい。今紅茶を入れるわ。ダージリンとアールグレイどっちがいい?」

「ダージリン」

「はいはい」


 クリスは微笑みながら台所に消えていった。
 言われるがまま、紅蓮は古びた木製の椅子に座った。腰に下げていた刀を床に置く。
そして机にひじをついて、居間を見回した。天井の角は蜘蛛の巣が張っているものの、
他の家具類には埃がまったくついていない。生活感のある部屋だった。暫くすると、台
所から紅茶の良い香りが漂ってきた。


 懐かしい、と紅蓮は思った。


 此処に来るのは3年ぶりだった。今日は仕事が休みで、無性になぜか、ここに帰りた
くなって来たのだ。
 
 紅蓮は十歳のときにこの家の養子となった。クリスには育ててもらったという恩があ
るが、それよりも自分のやりたいことを優先にした。15になったときに騎士団に入り
たいとクリスに申し出たが、当然危険だからやめろと反対された。だから紅蓮は何も言
わずにこの家を出、街に姿をくらませて騎士団の試験を受けたのだ。


 三年経つだけで、人はこんなに変わるものなのか。と感慨にふける。



 
「どうぞ」


 ことり、と小さな音をたてて白い陶器のカップが机に置かれた。紅茶が静かに湯気を
立てる。


「ありがとう」


 クリスは向かいの席に腰を落ち着け、早速自分のカップに口をつけた。つられるよう
に、紅蓮も温かい紅茶をすする。相変らず入れ方がうまいな、むしろ自分の好みをわか
っているな、という味がした。それが少し嬉しくなったが顔には出さない。
 そして、紅茶を差し出したクリスの手を見て驚いた。ひび割れた、間接あたりの皮膚。


「まだ仕事してるの」

「そうしないと暮らしていけないわ」

「お金送ってるでしょ」

「ばかね、誰から送られてきたかわからないもの使えないわ。わかってたけど」

「……、」


 紅蓮は何も言い返せずに口を閉ざした。
 どうせ誰からかわかっていても働くんだろうな、と頭の片隅で考えて。確か彼女は、
昔は酒場で働いていた。おそらく今もそこで働いているのだろう。ひび割れた皮膚は、
食器を洗ったときのものだと勝手に想像する。



「今日は、どうしたの?」



 それは、3年も帰っていなかったのに今更どうしたのだと暗に聞いている。もちろん
温厚な性格の彼女のことだから、嫌な意味ではない。純粋な疑問なのだろう。紅蓮は一
瞬、どう答えるべきか迷った。しかし結局口をついてでたのは思いついた軽い言葉。


「きまぐれだよ」

「そう、でも嬉しいわ。私としてはね、あなたは私の本当の娘みたいなものだから。帰
ってきてくれて、ありがとう」

「……前から思っていたけど、クリスって変わっているよ」

「あら、そうかしら」

「クリスが変わってなかったら、他の人は人間じゃないね」

「ひどいわ」


 クリスは楽しそうに笑った。
 紅蓮はこの変わり者であるクリスの性格を好んでいた。分け隔てのない穏やかな性格
は、王都では中々お目にかかれない珍しさがある。彼女がそういう性格だったからこそ、
義理の子供であってもそう気遣うことなく生活してこられたのだ。


「ねぇ、どうして騎士団に入りたかったの?」


 クリスは、騎士団の象徴の、黒のコートに刺繍された金の龍を見ながら訊いた。


「……」

「前は頭ごなしに否定しちゃったけど、ごめんね。あなたにも考えがあったんでしょう」

「……うん」


 しばらく沈黙が下りる。
 紅蓮は、優しげに細められたクリスの緑の目を見つめながら、困ったように笑った。
それから、きゅっと胸に下げられた十字架をつかむ。真中にはめられた小さな紅色の宝
石を見つめて、小さく呟くように言った。


「今は、言えない。もしかしたら、これからも」


 でも、と続ける。


「言いたくなったら、聴いて」


 クリスはほほ笑みながら、頷いた。
 





 しばらく談笑していると、クリスは思いついたように手を打った。紅蓮はその行動に
首を傾げる。少しいやな予感もした。彼女がこうやってにこにこするときは、きまって
自分にとって嫌なことが回ってくる。

「そういえばね、エリアスのことなんだけど」

「エリアスの?」

「知っているかもしれないけど。エリアスがね、騎士団の試験受かったの」

「――――え」


 目を見開く。思わず体が硬直してしまった。
 エリアスはヘイゼルの義姉だ。クリスの実の娘。小さい頃はよく遊んだものだ。だが
クリスと同じで家を出てからは何一つ連絡を入れたことはない。そんなことよりも、理
由が気になった。


「え、待って。は?なんで」

「この国を守りたいんですって。ふふ、あの子らしいでしょ?いつも直感的で、運任せ」

「……それで」

「もちろん反対したわ。でもあなたと一緒。全然私のいうことなんか聞いてくれなかった」


 子離れってつらいわね、と、おどけて微笑むクリスは、どこか寂しげだった。

 ああ予感が当たった最悪だどうしようもない畜生何考えてるんだあのばかなんで受か
ったりなんかするんだよ、なんでなんでいつも上手くいかないんだ。いつも上手くいく
くせに変なとこでうまくいかない畜生。

「医療班?」

「いや、騎士団の戦闘部隊、よ」

「受かったんだ、あんなんでも」

「お転婆だからね」

 
 でも失うのが怖い、あなたと違ってあの子は弱いから、と言ったクリスは何もかも見
透かしているようだった。

 紅蓮は何も言えず、口を閉ざして紅茶を啜ることしかできなかった。ついでに目も閉
ざしてしまいたかった。何でかエリアスが出て行ったのは自分のせいの気がした。偽り
の家族というレッテルは、たとえクリスの中にないのだとしても、紅蓮の中には深く根
付いている。気の利いた言葉が思いつかない自分が歯がゆい。



「エリアスに会ったら、手紙ぐらいはよこしなさいって伝えてくれる?」


 勿論あなたも少しぐらい連絡をよこしなさい、と苦笑する母に、


「……うん」



 気づかれないように自嘲の笑みを薄く浮かべた。
 

 



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