せめて温かい夢を見させて





 ――――暗い。



 そこは、何もなかった。何も見つけられない、何も映らない深い闇。足元も、自分さえも見えない。

  何か不安定な足元に、ぐらりと崩れ落ちる。手をついたところに、ぬかるんだ感触がした。それを
知覚した途端、むせかえるような臭いが体を包んだ。よく知った臭いだ。鉄錆と、唐草を混ぜ合わせ
たような臭い。血の、におい。
 ぬるりとした感触の手を覗こうと思っても、暗い。何も見えない。言いようのない不安が思考を埋
めていく。自分が何か叫んだ気がした。


  ぱっと視界がクリアになる。

 
  今まで目をつむっていた、と気づいた。

 そこには血にまみれた死体が、薄闇の中、ぼんやりと浮かんで見えた。その死体は、どこかで見た
ことがあるような顔をしていた。どこで?どこで?切ないような懐かしい気持ちが、こみあげるよう
な。純朴そうなきれいさのある顔の、女性。太陽のような眩しい金色に輝く長い髪。


 それが、一体誰であるのか。


 わかったとたん、思わずあの名を口にする。
  
  
  自分が強くあれるための――――、
 

「   、」
 


 光の中に戻る前に、誰かが体を抱きしめてくれたようなあたたかさがあった。気が、した。



 目を、あける。
 











 鋭い朝の光が、紅蓮を射るように射していた。そういえば、昨日カーテンを閉め忘れた気がする。
ふう、と深いため息を吐いて、嫌な汗をかいた首筋をなでる。じっとりとしていた。頭の中も不快
で、嫌な気分だった。

  何の夢だっただろう?よく覚えていないが、夢なんてそんなものだ。
  赤銅色の髪をかきあげて、首に張り付いて気持ち悪い後ろの髪を適当に括る。


「おはよう、紅蓮」


 ふと、頭の中に声が響いた。低い、なのに聞き取りやすい声。一日が始まる前に、毎日聴く言葉
になぜか安心した。紅蓮は微笑んで、返す。悪い夢が、さっと晴れていく気がした。


「うん、おはよう――――」


 そして、枕もとに置いてあった刀を手に取る。「シャワー、行ってくる」と呟くと、「ん、わか
った」と返事が返ってきて、いつも何かを纏っている感覚がふっと離れていった。いつも思うが、
きっと『ソレ』が彼なのだろう。彼の姿を確認したことはないが、紅蓮は彼を信用していた。


 彼の名は、シンヴァリアスというそうだ。長いので、紅蓮は「シン」と呼んでいる。そのシンと
は、幼い頃からずっと一緒にいた。もちろん他人には何も聞こえない。人のいる場所で彼と会話す
れば、独りで喋っている少女と勘違いされる。


 彼はそう、幽霊みたいなものなのだ。姿がなく、それでも意識が紅蓮だけに語りかけてくる。



「……はぁ」


 熱いシャワーが汗を流す。昨晩は冷え込んでいたので、さらに汗で冷えた体がゆっくりと温まっ
ていく。冷たい指先が温まっていく、痛みに似た感覚を感じながらぼんやりと、湯気を見ながら紅
蓮は昨日クリスと話したことを思い出していた。


 
 エリアス。



 彼女のこと。

 絶対に見つけ出して、追い返さなければと考える。あそこは『危険』なのだ。彼女も、もしかし
たらここの城の騎士全てが気付いていない。しかし考えれば考えるほど、深みにはまるように良い
考えが浮かばない。自分はこんなに脳の回転が遅かっただろうか。それとも、ひどく混乱している
のだろうか。


「アレは頑固だからな……」

 ゆっくりと、瞼を閉じる。
 





「もう出たの?」

 シャワー室から出ると、一瞬風が起こったように温かいものが体の近くを通ったような気配がし
た。いわずもがな、シンだ。紅蓮は軽く頷き、タオルを頭にかぶったまま椅子に座りこんだ。安い
椅子なので、体が痛い。


「あぁ、此処はクリスの家だったっけ」

 思い出したように、ぽつりと呟く。いつのまにか、昔のように此処が自分の家のような気がして
いた。目を覚ませば、懐かしい天井。なんて、考えたこともなかった。戻る気すらなかったのだ、
本当は。だけど、気がつけば体は、この家に向かっていた。でも、そんなの言い訳にすぎないな、
と自嘲した。


 
 リビングに行くと、クリスが嬉しそうに「おはよう」と言ってくれた。朝食の用意もしてくれて
あって、温かそうなパンにスープ、目玉焼き。香ばしいにおいが鼻腔をくすぐる。スプーンを渡さ
れたので、軽く礼を言って食べ始めた。懐かしい、味がして頭が痛くなる。

「口に合う?」

「うん」

 なんて懐かしい会話だ。こんなの小さい時と変わらない。あえて、クリスがそうしているのか。

  ゆっくりと、今まであったことを報告するように喋りながら朝食をたべた。ずっと続けば楽なの
にな、幸せ、なのに。紅蓮はクリスの目を静かに見つめた。黄昏色の瞳が、しっかりとくすんだ翠
をとらえる。やわらかな色なのに、薄氷のような鋭利さしか思い浮かばない少女独特の視線に、ク
リスは首をかしげた。

 怯えはしない。
 昔から変わらない少女の目に、母親は軽く安堵を覚える。


「どうしたの、紅蓮」

「……クリス」


 呼ぶ。

 紅蓮は、クリスの事を「母さん」と呼んだことがない。記憶にない、というのではなく、故意に呼
ばなかったのだ。記憶にないということはまずありえないだろう。呼ぶ勇気がなかった。なんて臆病
なんだ、自分が情けなくなる。それを言うだけで、目の前にいる人は喜ぶというのに。

 一度目を伏せる。力を求めるように、十字架をきつく握りしめて、またクリスの瞳を見据えた。


「もう、行かないと」
「……そう、行くのね」


 柔和な笑みを浮かべて、クリスは続ける。「お仕事があるものね」と、顔をそらした。苦笑にも似
た、どこか寂しそうな横顔に、紅蓮は何かが喉につまっているような錯覚がした。どうしてこんなと
き、気の利いた言葉をかけられないのだろう。


「うん」


 頷いた自分は、せめて表情に言葉を表せていただろうか。


 クリスには感謝している分、引け目や申し訳ない気持ちでいっぱいだった。もうすこし自分は自己中
心的だったはずだが、と内心自分に苦笑する。この変化はきっと、いいものなんだろう、と。

 机に立てかけてあった刀を右手に、踵を返す。後ろから、「いつでも帰ってきていいからね」と優し
い言葉がかけられるのに、紅蓮は自責にかられた。
 自虐的な考えはないが、どうしてもその言葉は、あまりにも――――。



 まだ温かい皿が、じきに冷えていった。






noveltop  nextstage