呼び声が聴こえる。悲痛で切ない、こえ。
     小さく長閑な村。 そこに、少女はいた。年の頃は15歳ほど。今の空にも似た、透き通るよう な蒼い目。真っ直ぐな肩まで伸ばされたブロンドの髪は、無造作に1つに結っ ている。黒のノンスリーブの上に灰色のパーカーを羽織り、白いミニスカー トに、白いブーツという地味な色合いの服を着ていた。  まだ午前だというのに日差しは暑く、肌にはじっとりと汗が滲む。 少女は額の汗を拭い、重いため息を吐いた。   「キルシュ、ばててないで手伝ってよ!」    キルシュと呼ばれた少女は、自分の名前が呼ばれたことに驚いて上を見上 げる。民家の屋根の上にいる、キルシュと同じぐらいの歳の少女が眉を吊り 上げてこちらを睨んでいた。  茶色の長い髪に、薄汚れた作業着。 「リシェル、無茶なこと言わないで。私暑いのは慣れてないんだから」 「もう、だらしないわね」  リシェルは大工の娘だ。    一昨日このあたりは大雨強風に見舞われ、そのせいで傷んでしまった家が多 い。棟梁の親父さんだけでは手が足らないらしく、彼女はそれを直す手伝いを している。  リシェルはふてくされたような顔で止めていた作業を再開した。  とん、とん、と釘を打つ音が静かな村に響く。  彼女も暑いのか、首筋から汗が光っている。  キルシュはその光景を見ながら、困ったように笑った。 「あんたが暑いのがなれてないっていのは、わかるわよ。この村にキルシュが 来て、この暑い季節になるの、初めてだもんね」 「うん、そうそう。だから私はこのへんで」 「それとこれとは関係ないの!あんた家族見放す気!?ホラ、そこの脚立から 上ってきてよ。仕事たっくさんあるんだから」 「はいはい。仕方ないな」     リシェルの親には恩がある。  断るわけにもいかないだろう、と脚立に足をかけた。    キルシュは記憶喪失だった。    といっても、一般常識や自分の名前は覚えている。ただ人と接した記憶だけ が真っ白になっていたのだ。覚えていないが、村の前で倒れていたらしい。ひ どく衰弱していて、それをリシェルの親が介抱した。  意識が戻ったキルシュが記憶喪失だと知り、帰るところがない、ということ で拾ったリシェルの家族が引き取る事にした。これはちょうど一年前のことだ。  そしてやってきた、この地域で一番暑い季節。  じめじめとした暑さに、キルシュの気分は滅入っていた。  しかしリシェルたちには口で表せないほど感謝しているので、頼まれた仕事 は申し訳なくてどうも断れない、というのが少女の心境だった。尤もキルシュ は体を動かすことがわりと好きなので、大工仕事自体は嫌ではない。  ただこの燦々と照る太陽が、じりじりと温度を上げていく外にいるのが憂鬱 なのだ。 「ねえ、思い出さないの?」  唐突に、リシェルは聞いた。  その言葉の意味は、記憶を思い出さないのかということだ。  それはキルシュ自身が自分に問いたいことだった。もう一年も経つというの に、何も思い出せない。 「うん、まあね」 「そっか。……気にすんな!別に思い出さなくってもずっとウチで暮らしてい けばいいんだし、全然問題ないって」 「ありがと」  気を使った彼女の言葉に、苦笑いを浮かべながらキルシュは木製の屋根に釘 を打ち込んだ。するとリシェルが「筋いいんだから、あんたも大工したら?」 とにやり、という表現がしっくりくる嫌な笑みで言ったので、即座に「遠慮し とく」と返した。  舌打ちをしてリシェルは自分の作業を黙々とやっていた。さすがは大工の娘、 といったところか。手際がいいし、暑そうだが疲れた風でもない。  対してキルシュは暑さでばてていて、会話はリシェルが一方的に話し、キル シュは頷くか適当な相槌を打っていた。    ときどき村の人が「落ちるなよ」とからかうように声をかけてくる。  この村は狭いので、誰もが顔見知りで仲がいい。  大きな家族のようで、この暖かい雰囲気がキルシュは好きだった。    それでもどこか、心はなじんでいかない。  もともとリシェルも、その親も面倒見がよくキルシュを引き取ったのだが、 もちろんそれは感謝している。しかしそれよりも申し訳なさが勝っていて、こ れからどうしていこうかと毎日考えているからだろう。  この村で働くべきか、この村の外へ出て出稼ぎをするべきか。  そんなことを考えながら、毎日を過ごしていた。  それでも、キルシュはそこにいることが当たり前で、しあわせだった。  次の朝、キルシュは首を傾げた。 「エルフ?」  朝食のパンを頬いっぱいに詰め込み、咀嚼する。柄にもなく真剣な表情をし ているリシェルは、食事をしているキルシュに構わず続ける。木造の机を挟ん で座って、いつもの朝食のはずが、リシェルは朝食に手をつけていない。 「ええ、そう。三大種族は知ってるわよね?」 「それぐらいは。本で読んだよ」  三大種族とは、人間、ドワーフ、エルフのことだ。  三つの種族の特徴は異なっている。人間は知能が高く、物を作ることに優れ ている。ドワーフは身体能力が高く、傭兵になるものが多い。エルフは自然の 精霊の力を借りた魔術を操ることができるという。  また、姿形も異なっていて、ドワーフは身長が伸びない。エルフは見るもの を惑わせるような美貌を持ち、不老である。そして金髪碧眼に尖った耳という のがセオリーだ。だからキルシュのような、人間なのに金髪碧眼というのは特 異である。  対してドワーフは、身長が小さいのが特徴だ。人間より寿命が長く、成長す るのも歳をとるのも遅い。 「最近奴等がこの村の近くの街を襲ったらしいの。この前来てた商人さんに聞 いたわ」  その言葉に、さらにキルシュは驚くよりも先に首を傾げることになった。  エルフといえば、彼らは何故か人間と干渉することをひどく嫌い、森に結界 を張って暮らしていると記されていたはずだ。 「なんで、また?」 「さあ、わからないわ。あたしが言いたいのはそんなことじゃなくて、此処も 気をつけないといけないということよ。ここだって、危ないわ。かといってあ たしは家が此処だし、逃げることも考えられない。だから」  す、とリシェルは小さな短刀を差し出した。装飾などはされていない、ハン ティングナイフだ。キルシュは黙ってそれを受け取る。 「親父も、母さんも、あたしも持ってるわ。もしも、もしもよ?危ないときに 使って」 「……わかった」  大事にする、といえば、彼女は満足そうに微笑んだ。そしてすぐに表情を引 き締める。 「エルフは魔術とかいうのを使うらしいわ」 「魔術?」 「なんか……雷とか、火災とかを人為的に起こすことができるみたいなの。村 が襲われたら、きっと全滅しちゃうでしょうね。気休めでしかないけど、少し でも不安を和らげるものになればいいと思ってる」 「来なければいいのにね」 「そうね。それが、一番いいわ」 「うん」  気休め、でしかないものでも、こんなに心強いとは思わなかった。ナイフを 抜けば、白い刃が鈍く光った。残酷な色だ、と思いキルシュは笑った。リシェ ルが静かに言う。 「ねえ、もしあたしが死んでも、あんたは逃げるのよ?」 「それは約束できない……けど、逆の場合もそうしてね」 「本当、このまま平和なままがいいのに」  エルフに村が襲われるなんて日が訪れないように、願う。でも分かっていた。 そうやって願うことこそが、未来への不安の気休めでしかないのだと。    リシェルは朝食をさっさと済ませた後、まだ修理ができていない家があるか ら、と大工道具を持って家を出て行った。その後姿を見て、キルシュは寝間着 のまま、ぼうっと考える。  この村を出るべきではないのかということ。リシェルからエルフのことを聞 いて、少し躊躇った。そんな物騒なものがうろうろしてたら、殺されるかもし れない。臆病な自分が、ただひとつ思ったこと。  世界を見て回ってみたい。ということ。  記憶がすっぽりと抜けているため、この村のことしかキルシュが知る土地は ない。知っているもの全て『読む、聞く』でしか得ていないのである。だから 自分の目で世界を見たいと思った。  リシェルたちには悪いと思う。傲慢だとも思う。だが『無知』はキルシュに とって苦痛だった。自分だけが『知らない』というのは。焦りばかり生まれて きて、どうしようもなくもどかしいのだ。村から出たら、嫌われるのだろうか。  決して此処が嫌なわけじゃない。此処は自分の故郷だ。帰るべきところだ。 好奇心が勝る、子供のような言い分にしかならない理由。けど、もし出て行っ て、エルフがこの村に来たら?壊したら?自分が殺されたら?  キルシュは短刀を月の光に翳した。 「きれいだなぁ」  呟いて、テラスに座り込んだ。ぎし、と古びた床が音を立てる。夜風が気持 ちいい。滑らかな金髪を、風が撫ぜる。空にぽっかりと浮かぶ、闇を切り裂く ような三日月をナイフ越しに見ながら、ため息を吐く。吐息のような、しかし それよりも重い息。  それにしても、と、リシェルから聞いたエルフという単語を反芻した。これ を、どこかで聞いた気がする。思いだせそうで、思い出せない。喉につっかえ たような違和感を覚えて、首を振った。  こんな臆病な自分が、旅なんてできるのだろうか。意味があるのだろうか。 食糧だってとれるのだろうか。何かを殺すなんてことができるのだろうか。  考えながらも、本当は分かっていた。結局自分は反対されてでもこの村をで るのだろうということ。  不思議と、そう思ったのだ。まるで、するべきことが決められているかのよ うに。呼ばれているかのように、どうしてか魅かれるものがある。それが心の 迷いに終止符を打つ。何故だろう、と考えても答えは出ない。 「明日、義父さんたちに言ってみよう」  そう呟いたのが本当に自分の意思だったのかさえ、わからない。  そう思うほどに、少女の考えは、自分自身が驚くほどに頑なだった。   (誰かが呼んでる気がしたんだ)    やわらかな月の光が、小さな村を照らしている。   戻る?  進む?