過ぎ去る時間








「この馬鹿!」



 静かな村に、村一の大工の野太い声が響いた。村の人がなんだなんだ、と家
に近づく。
  その渦中に、キルシュはいた。


「だから、この村を出たいって」

「だから馬鹿なんだお前は!この村を出てどうするんだ、どうやって生きてい
くんだ。散歩じゃねえんだぞ!お前がお前らしく生きていけるのか。しかもこ
のエルフが盛んな時期に!何を考えているんだ!」

「わかってる、わかってるよ!」

「じゃあなんで出て行こうなんて思ったんだ」

「危ないことぐらい知ってるよ。でもそんなのどこにいたって同じじゃない!」


 ――――あ、と思った時には遅かった。義理の父の顔が、歪んでいた。隣で
はらはらしながら聞いていたリシェルも義母さんも、どこか痛そうな、顔を。
さっきのはひどい失言だ。彼も、村人も、リシェルだって義母さんだって、こ
の村を愛している。それなのに自分は随分と、馬鹿なことを言った。


 やはり、自分が馬鹿だったのかもしれない、と思い直した。

 知識が半端なのに、覚悟はあってもきっとのたれ死ぬかもしれない。彼らは
心配してくれているんだ、恩があってとか関係なくて、自分の事を本当の家族
と思って叱ってくれている。情けなくなって、俯いた。なんで自分はこんなに、
自分のことだけしか考えてないんだろう。


「ごめん。ちょっと、頭冷やしてくる」
 


 周りは水を打ったように静まり返っていた。
 人だかりを縫うように、キルシュは乱暴に外へ出て行った。








 やっぱりできない、と思った。この村から出て、生きていける気なんてなく
なった気がした。キルシュにしてみればこの村――――エヴァンは、世界のす
べてだった。暖かくて、いとしい、とか馬鹿げたくだらないことを思ってしま
うような。義理の父、ダイトに否定されて、それが自分のためだということに
気づいてからは、もう出ていきたいなどと言えない気がした。


 それぐらいに、大事と思っていたのに。
 家に帰るのも、なんだか気まずくなってしまった。あんな後に、どうやって
顔を合わせればいいかわからなかった。どうしようもない苛立ちを、やんわり
と風がさらっていく。若草のにおいがする風に、少し癒された気がした。



 キルシュはこの村で気に入っている、小さい丘に来ていた。そこには一本、
大木が構えている。どっしりとした木は、きっと何十年も生きているのだろう。
ごつごつとした表皮にもたれて、草原の上に座り込んだ。ベルトにつけてあっ
たナイフが邪魔だったので、はずして隣に置く。
 ここからはエヴァンの全部が見える。ここからじゃ小さいが、生活している
分には結構広いのだ。ここを最初に訪れたとき、きれいだと純粋に思った。こ
こで暮らすのが嬉しかった。最初は不安だったけれど、リシェルのおかげでど
うでもよくなった。

 どうしよう、こんなんじゃ帰れない。
 子供みたいに癇癪起こして、馬鹿みたいじゃないか。
 何故か目が熱くなって、泣きそうになった。




「お前は本当に此処が好きだなあ」

「……お父さん」

 
 ふと声をかけられて、振り仰ぐ。どっしりとした体格の、見慣れた笑顔があ
った。そうはいっても、苦笑、だが。その顔を見て、すんなりと謝罪の言葉が
出てきた。


「ごめんなさい、私、考えなしだった」

「いいや、俺も話を聞こうとしなかった……どうして、エヴァンを出たいんだ」


 捨てたいわけじゃないってのは、わかってる。
 言外にそう言われた気がして、我慢していた涙が零れた。いくら親だといっ
ても見られたくなくて、すぐに袖で拭く。


「私、あの、……わたしは、」

「いい、ゆっくりでいいから、言え」


 大きな手で頭を乱暴に撫でられて、驚いて涙がひっこんだ。髪がぐちゃぐち
ゃになる、という文句は忘れない。それを聞いて、ダイトは大らかに笑った。


「世界が、見てみたいんだ。本とかじゃなくって、実際に、いろいろな人と話
して、知っていきたい。なんでも、なんでもいいから、私が知らなくて、他の
人が知ってるものを」

 
 この選択が、どれだけ自分に影響を及ぼすのかは、まだ、知らない。
 ダイトは無精ひげをひっきりなくいじる、という考えているときの姿勢を見
せた。それから、困ったように呟いた。


「そうだとは、思ったんだがなあ……お前、記憶喪失だろ。それで、俺らが引
き取って、色々教えて……リシェルも母ちゃんも、俺も。気づいたらお前が可
愛くて仕方ないんだ。いらないことなんか知ってほしくないって……本当は悪
いと思ってる、どっか行くのは隣の村ぐらいで、そんだけなら俺もついていっ
てやればいいなんて。こんな小さな村に引き留めて、閉じ込めて。馬鹿は俺達
かもしれないな」



 彼はキルシュが好奇心旺盛なことをよく知っている。だから困っていた。他
の街へ連れて行きたくなかった、人間の嫌なところを知ってほしくなかった、
とダイトは懺悔するように言った。普段の彼からは考えられないぐらい、小さ
な声だった。
 どうやらキルシュ自身が考えていたよりも、ずっと家族らしい、感情がキル
シュの周辺を取り巻いていた。その事実が嬉しかった。



「お前は、俺の大事な娘なんだ、わかってるな?」

「うん。感謝してるんだ、お父さんたちに。記憶を取り戻したいとか、そんな
ことはどうでもいいの。今が楽しいから」


「でも、」続ける。「私、ちゃんと外を知りたい」それだけ言って、俯いた。
 どうせ聞きいれられないと思っていたから、零した愚痴。暫く、沈黙が続い
た。風が吹いて、このまま風みたいになれたらいいのに、なんてことを考えた。
 

「ああ。そうだろうな。わかってるよ。……いいぞ、旅に出ても」

「え?」

「旅をしてる女なんていくらでもいるし、うん」


 意外な言葉に、ダイトを凝視する。彼はきまり悪そうに、視線をそらした。


「かわいい子には旅させろってどっかで聞いたしな。ただし!ちゃんと自分で
狩りができるようになって、人との付き合い方もしっかり覚えて、国のことを
ちゃんと勉強して、俺から一本取ってからだ!」 

 
 びしっと音がしそうなほど、キルシュを指さした。
 そうしたら、一人前とみなして、一人で旅することを許可する。ダイトは胸
を張って言った。なんとも熱血漢のダイトらしくて、キルシュは噴き出した。
それから、立ち上がって、にやりと笑った。




「言ったね?私がんばるよ?」

「お前に負けるわけなかろうが!」

 
 丘の上で自信満々に高笑いをしながら言ったダイトが、線の細い娘に一本取
られ、悔しがるのは5ヶ月後の話。







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