地に縫い付けられた足








 朝の爽やかな空気が辺りを包み込んでいる。


「重……」


 キルシュはため息を零した。
 あれからもう1ヶ月経っている。気のよい宿屋の店主に働かせてもらえるこ
とになり、裏方で仕事をしている。今はまさにその最中だ。

 ずっしりと重たい洗い立てのシーツを籠に入れて、物干し竿にかけていく。
簡単な作業なのだが、量が量なのでさすがに疲れたキルシュはその場に座り込
んだ。ベランダからは公園が一望できる。今日も人がいっぱいだ。……この宿
屋の客は少ないが。


 今の生活はとても充実していた。休み時間が訪れれば城下の散策や、近くの
図書館に篭って本ばかり読んでいる。それら全て、新鮮だった。横を通り過ぎ
ていく人々、新たに次々と入り込んでいく知識。

 なにより今の生活に順応してきている自分自身にしあわせを感じていた。と
きどき、故郷を思い出したりもするが、それを除けば順調に外の生活をしてい
た。尤も、給料はもらっていない。収入の少ない店なので、働くというよりも
居候、もしくは養子にでもなった気分だ。
 ここの主人は優しい。その妻も、だ。この宿屋は家族経営で、息子は出稼ぎ
に行っているそうだ。よく1人息子なのに、と主人が愚痴を零している。


「キルシュ、それ終わったら午前の仕事は終わりね!休んでいいよ」


 下の階から主人の元気のいい声が聞こえてきた。キルシュも聞こえるように
大きな声で返事をする。これはもう日課のようなものだった。キルシュの仕事
は掃除、ベッドメイク、食事の配膳だ。午前の仕事が終わって、昼になるまで
にはまた戻らなくてはならない。
 
 洗濯物を干し終わったキルシュは早速外に出た。



「今日は散策でもするかな」


 どこに行ってなかったっけ、と思考しながら大通りを歩いていく。もちろん
宿屋で働く前に茶色に染めた。明るい、日に透かすとオレンジになる色も、割
と気に入っていた。この国はどうやら本当に種族差別が激しいらしく、住む人
全てが人間で構成されている。さすがにその中で金髪で過ごす無謀さはない。

 それでも少し残念に思うのは、一ヶ月前に会ったドワーフに言われた台詞
にある。


『きれいな色だね』


 実際キルシュも金髪の色は気に入っていたので、あのときの言葉は嬉しいも
のがあった。だけどどうにも、世間様には逆らえない。あの色を知っていても
いいのは、エヴァンのヒトだけでいいのだ。
 あそこにはドワーフも、人間も協力して、同じもののように過ごしていた。
都会と田舎の違いに、最初は戸惑ったが、自慢の適応力でカバーできた。
 宿屋の店主は髪の色はどうでもいいと言ってくれたが、この国の人々全てが
店主のように優しくはない。
 
 日焼けするのは嫌いなので、帽子を深く被って歩いて行く。


「あれ……?」
 

 これは偶然、といってもいいのだろうか。それとも必然だったのだろうか。


 小さな路地に、見たことのあるちいさな影が入っていった。あれは間違いな
くアズだ。いつかはレンとアズにお礼がしたいと思っていたので、走って追い
かける。キルシュも同じように小さな路地を曲がった。


 キルシュは首を傾げた。

 そこには誰もいなかった。彼女も走って行ってしまったのだろうか。残念に
思いながら、行き先もわからないのに無謀に追いかけるのは迷子になるので追
いかけるのはやめた。残念で仕方がない。


「!」


 ふと後ろに気配を感じた。何か直感的に体を横に捻ると、真横をスローイン
グナイフが通っていった。帽子が地面に落ちる。耳元で聞こえた音はまるで風
が吼えるような。一瞬で汗が噴き出る。
 一体何事だろうとついていかない頭をフル稼働させて、それを投げてきた相
手を見た。


 ――――呆気に取られた。


 それは向こうも同じようで。小さなドワーフが丸い目をさらに丸くしてこち
らを見ていた。ナイフを投げた姿勢のまま、だ。


「え、君、あのときの」

「あはは、お久しぶりです……」


 なんとか、その言葉を喉から搾り出した。
 




 路地は静かだった。大通りもそろそろ賑やかになってきた。薄暗い路地は、
まだひんやりとしていて寒く感じる。


「いやー、ごめんね?何かつけられてる気配したからさ、警戒してたんだ」


 あっけらかんと言うアズの顔は笑顔そのものだ。短い髪を掻きながら、投げ
て壁に刺さったナイフを手に取り腰のベルトに下げてある鞘に入れた。キルシ
ュは返答に困り、苦笑で返した。


「別につけてなんかなかったんですけど」


 さっき見つけて追ってきたんだと説明すると、アズは首を傾げた。考えるよ
うに首を傾げる。じとりと疑わしそうに見つめてくるアズに、慌てて首を振る。


「ホントですって」


 その様子にアズは表情を崩して、人懐っこい笑みを浮かべ「嘘だよ」と言う
と、どこかに入ろうと言ってキルシュの手をひっぱった。小さな路地から大通
りに戻ると、変わらない賑やかさが2人を出迎えた。


「おかしいな、だいぶ長い間気配がしていたんだけど。ま、いいや。もういな
いみたいだし……後でレンさんに報告するか」


 アズは小さな声で呟く。キルシュは聞こえていたが、あえて聞かないことに
した。誰かに追われているのか、と訊きたいところだったが、そこまで追及で
きるような仲じゃないとキルシュ自身わかっていたので、黙ってついて行く。


「ところでさ、名前なんていうんだっけ?」


 キルシュ、と言いそうになったところを、レンにはリシェルと言ってあるん
だったと思い出して「リシェルです」と答えた。自己嫌悪。めんどくさい、う
っかりでも他人の名前を使うんじゃなかった。


「あ、この前の迷惑も兼ねておごります」

「いいの?ありがと。でもお金大丈夫?あたしちゃんと持ってるよ」

「それじゃ私の気持ちがおさまらないので。レンさんもどうでしょうか」


 実のところレンに一番感謝しているのだ。だがアズは申し訳なさそうに眉尻
を下げた。


「レンさん?ああ、あの人は今仕事中だから、ちょっと出てこれないな。おみ
やげ買ってくれる?」

「はい」

 年下におごらせるのはちょっと気が引けるな、とアズは言いながら小さな店
に入った。パン屋のようだ。香ばしい香りがしてくる。甘い匂いもしてくるの
で、ケーキも焼いているのだろうか。


「ここのパンとケーキ、おいしいんだ。いつも買いに来るの。奥で食べられる
から、ちょっと話そうよ」

「もちろん」



 アズが選んだのは気を使ってのことか、結局安いケーキだった。レンへのお
持ち帰りのパンを選んだのも彼女で、キルシュが高くても買えると言ったのも
聞かず安いものばかりを選っていた。





 
「じゃ、そろそろ行こうかな。これから仕事があるの」

「……何の仕事をされているんでしたっけ」


 賑やかな大通りを避けるように、2人は路地を歩いている。キルシュは純粋
な疑問を投げかけた。正しくは、純粋な疑問を装って探りをかけた。そもそも、
誰かに追われているのも含め、あのナイフの手馴れた投げ方は不自然なのだ。

 この国の護衛団のひとりと思えばそれで終わりだが、この国ではたして忌み
嫌われる対象である異種、ドワーフという存在が護衛団に加わることができる
だろうか。

 隠しているにしても、この外見ではまず無理だろう。


「リシェルちゃんは、どう思う?」


 さすがは精神年齢が高いだけのことはある、とキルシュは感心した。
 アズがパンの詰められた紙袋を抱きしめながら、キルシュを見上げる。その
目は、ただ拒絶の色を湛えていて。聞いても教えてくれないだろうことは明白
な、その強烈な印象を与える強い視線。


「さあ、どうでしょう」


 曖昧にぼかして、キルシュはアズから視線を逸らした。


「……リシェルちゃんは、賢いんだろうね。そんな目をしてるから、きっと」


 きっと、の次をアズは言わなかった。ただ、ふるふると細い首を振って、苦
笑した。その次が気になったが、なんとなく言いたいことはわかった気がした
のでキルシュはあえて聞かなかった。


「レンさんに似てるわ」

「私がですか?」

「うん、目がね……うふふ、懐かしいな」


 何を懐かしんでいるのかは知らないが、アズが嬉しそうに言っているので、
水を差すようなマネはしたくなかった。
 









 じゃあ、とアズはキルシュから離れようとした、その時だった。


 アズが目を見開き、その小さな腕では到底出せないだろう、というものすご
い力でキルシュの肩を引いた。キルシュは何が何だかわからなくて、アズの腕
に引かれるまま体のバランスを崩して地面に尻餅をついた。

 そこでやっと気がついた。今さっきまで、キルシュが立っていたところに細
い銀の矢が刺さっていた。


「リシェルちゃん、ごめん。巻き込んじゃった」


 巻き込まれた、誰に、何を。今だ混乱から抜けきれないキルシュは、アズの
目を見た。	
 アズが睨む先には、金髪碧眼の女性がいた。短く切った金髪に、憎悪も篭め
られた殺気を宿す目。見とれるほど美しい造りの顔。尖った耳には、銀色の耳
飾りが光っている。体全体、外套のあるローブに包まれている。手には弓、腰
には細い剣が吊るしてある。まさしくその姿は、


「エルフ……」


「リシェルちゃん、できれば、逃げて」


 アズはキルシュを庇うように前へ出た。両手にナイフを持ち、目の前の敵を
見据えている。――――今この場に流れている空気を殺気というのだろうか、
背筋がぞくりとするような冷たい沈黙。

 逃げなければ、とキルシュは踵を返した。このまま、この場にいてもアズの
邪魔になるだけだろうと判断してのことだ。自分は助けを呼びに行くことぐら
いしかできない。だが、それはできなかった。

 女のエルフの仲間だろうか、男のエルフがアズとキルシュを挟み撃ちにする
ように狭い路地に立っていた。キルシュはどうしていいのかわからなかった。
こんなことはダイトにも教えてもらっていない。逃げなければ、と思う反面逃
げられないと分かっていたし、戦わなければ、と思う反面負けると分かってい
たし。
 どうすれば、どうすれば、


 つ、と背中に嫌な汗が伝った。

 迷っていたのがいけなかったのだろうか。


「リシェルっ!」


 気がついたときには遅かった。アズのほうを見れば、鮮やかな赤が弾けるよ
うに宙に散る。細い肩に、無骨な銀の矢が刺さり貫いてしまっていた。それら
全てが、スローモーションに見えた。目を見開いて、その光景を呆然と見てい
た。

 アズの体がゆっくりと傾いでいく。その顔は苦痛に歪められていて。自分の
所為で彼女が傷ついたのだ、と認識するまで時間がかかった。


「アズさん!」


 自分よりも一回りも二回りも小さな体が、地面に叩きつけられるようにして
倒れた音が小さな路地に不思議なほどよく響いた。

 自分が、情けなくなった。足手まといになった挙句、怪我まで負わしてしま
うなんて。ましてやドワーフといえど人間からしてみれば少女の体。その体か
ら、真っ赤な鮮血が留めることを知らないように溢れていく。じわじわと、緩
慢なスピードで石造りの地面を侵食していく。
 何のために自分は武術を学んでいたんだろう。


 赤、赤、赤、


 息を、することも忘れた。


 ただ、目を見開きその赤色を眺めていた。


 この色、見たことはないか?

 と心の中の誰かが言う。


 赤色が、記憶の底から漏れ出て吐き気が襲った。赤、赤、何度も頭の中で繰
り返される言葉。のどが詰まったように、上手く呼吸ができなくなる。

 ふとアズから目を離し、男のエルフを映す。彼の表情は勝ちに酔いしれるよ
うな歪な笑みを浮かべていた。そして重そうな真剣を振り上げる。



 自分の中の、なにかが、なにかが体のなかで弾けた気がした。


「     」




 キルシュは何事かを叫んだ気がする。自分で何を叫んだのかもわからないが、
ただそれは、薄氷のような、稲妻のような、鋭利で攻撃的な声だった。そうし
てそれも聞いたことがあるような気がした。








  戻る?  進む?