操り人形の糸 ――――いつまで隠れているつもりだ? 頭の中に直接響く、低いが下品ではない男の声。聞き慣れた声だ。毎夜その 声は自分を苦しめる。責めて、嘲り、挑発する言葉。頭が割れるぐらい、何度 も何度も繰り返される、呪うような言葉は夜が明けるまで。 もうお前の場所はわかっているんだ。出て来い。 クロム、と呼びかける声に感情はひとつも篭っていない。冷たく、突き刺さ るように鋭利な薄氷のような。びくり、とクロムは肩を揺らす。誰もいない部 屋。ベッドの上に胡坐をかいて、クロムは虚空を見つめた。 「どうして俺がお前の言葉を聞かなきゃならない」 右目は青みがかかった赤。左目は鮮やかな朱色に近い赤。不気味な光を放つ 双眼をそっと閉じ、口元に嘲笑を浮かべる。 よく言うよ……なあ、クロム。 「つッ……う、ぁ!?」 クロムは左目に突如迸った熱さに、両手で目を覆った。この痛みは「いつか」 のことが思い出されるような、痛みを痛みととれないような、もう何が何だか わからなくなるほどの激痛。先ほどまで視えていた数分先の未来が見えなくな り、暗くなる。 「貴様、何をした……!」 質問には答えず、男は言葉を紡いでいく。辛辣で、冷ややかな。 その目を少ししか使いこなせないくせに。 「うるさい」 目に取り込まれてまで視える未来にすがるか。どうしてそれにしかすがれな い。 「うるさい」 お前はお前じゃないのに、哀れなものだ。 「だまれ!」 クロムは声を張り上げた。だが男は聞く気もないのか、気にも留めない。淡 々と、事実を暴くように、壊れかけた心の罅をこじ開ける。 気づいているだろう。お前の目はもう、お前じゃなく「目」のものになって きている。精神が使いこなせていないんだ。お前には未来(それ)は重過ぎる。 「それはお前のせいだろう……!?」 その通りさ。俺の廃棄物。弱きものよ――――。 クロムが呻く。痛みを和らげようと左手でシーツを握り締める。嫌な汗がど っと吹き出て、米神から伝った。男の声が哀れみを含んだものに変わる。しか し男は今、見えないところで嘲笑を浮かべていることだろう。 夜毎、責められ、愚かなことにも侵食されていく自分を笑っていることだろ う。 ……忘れるな。お前は俺だということを。俺はお前。お前は俺でしかない。 そんなことはわかっている!クロムは心の中で叫ぶように言った。痛む目を 押さえて、痛みではなく、男に言われた事への悔しさで唇をかんだ。それでも 自分にはこの「目」しかないのだ。いくら魔力があっても、そんなものは「目」 に比べれば微々たるものだ。絶対的なものじゃない。 近々、やっとお前と会えるだろう。そのときにわかるさ。お前が運命とやら に逆らっているつもりでも、まんまと世界の掌で踊らされているということが。 俺とお前、どちらが世界の操り人形かが。 楽しみだよ、と男は至極嬉しそうに囁く。狂気を含んだそれに全身が粟立つ。 男に対する苛立ちに、息がしにくくなる。肺に酸素が足りない。自然と息が荒 くなる。額から一粒、汗が伝う。ぎり、とシーツを握っていた拳を、さらにき つく握った。 そしてそのときをお前と俺の最後にしよう。楽しく殺しあおうじゃないか! 「それはこっちの台詞だ……っ」 また右目の色素が赤に近づく。 「……う」 はっと目が覚めると、まだ部屋は暗かった。壁掛け時計を見ると、針はまだ 2時を指していた。キルシュはため息を吐いて、起き上がる。布団から出た上 半身が夜気に包まれて少し肌寒い。こうしてこんな時間に目覚めることは、珍 しいことじゃなかった。 そう、これはエヴァンを出てすぐ。あの白い不思議な夢を見てからだ。不思 議なことに、ときどき、数日おきに白い少女こと、ヴァリアンテに会う。続き がある夢。しかし最初のほうこそキルシュはそれを夢だと思っていたが、こう 頻繁に同じ夢を見ると、そうは思えなくなる。 いつも少女が泣いているのだ。そしてキルシュに対して「助けて」「お願い だ」と懇願する。繰り返し、繰り返し。何を伝えたいのか聞きたいのに、聞け ない。イライラして、とても悲しくなって目が覚める。 頬に涙が伝っているのも、こう何日も続けば驚くようなことじゃない。 これはキルシュの憶測だが、あのヴァリアンテの夢は、違う場所から精神を キルシュの頭の中に送ってきているのだと考えている。数日前に本でそんな魔 術があることを読んだことがあった。しかしそれはとても高度な魔術で、少し 魔術を齧ったぐらいではできるものではないらしい。 少女の実態はわからない。もしかしたら、危険かもしれない。 それでもリドルやアリス、最近魔術を教えてくれる魔術師たちには相談しな い。もし、ヴァリアンテの存在が消されたら?何故か、それは駄目だと思う。 それこそが危険だ、と脳が拒む。まずは、それがどうしてかを自分なりに理解 する必要があるだろう。だから、まだ仲間に言うには時が早い。 「寒い」 呟き、緩慢な動きでベッドから降り、靴を履く。やはりこの時間には、今来 ている薄い服は寒く感じる。二の腕を擦りながら立ち上がる。喉が渇き、唇が 乾燥していた。 水が飲みたいと思い、隣の部屋のリドルに気づかれないよう、気配を消して そっと部屋を出た。確かここから結構遠いが、食堂に井戸が掘られていたはず だ。毎回アリスは、魔術の練習中のキルシュに水分の差し入れをしてくれる。 どこからと聞いてみれば、いつもそこから持ってきていると言っていた。 ひたひたと静かに廊下を歩く。お世辞にも綺麗とは言えない罅の入った壁な どを見ながら、ぼうっとしながら少し前の数日間のことを思い出す。 キルシュの部屋の壁に大穴を開けたリドルが、魔法でそこを直しているとき に聞いたことがある。「どうして壁とかは直せるのに国全体はなおらないのか」 と。返ってきた答えは簡潔で、「そこまで魔力が多くない」……つまりリドル も普通のヒトだったのだと安堵した。 ウル。彼は自分のことを死なないと言っていた。つまりは物語の中に出てく る不死者のことだろうか。自分自身をそう例えただけならば、なんと滑稽なこ とだろう。でもあの土気色の不気味な肌の色は――――死者そのもの。 考えただけで寒気がした。 世界の原理に逆らう異質なもの。一度死んだはずの者が、生き返るという無 残さ。それが集まったらどうなる?答えは簡単だ。勝ち目は零。どんな軍隊で も勝てないだろう。 「……っ」 もうすぐ戦争だとリドルは言った。アルジュナ中が気を張っている。 それでもリドルが指示をだしていないので、未だ敵対国に対して陣は敷かれ ていない。アリスによると、あんまりせっかちに陣を張っても食料がなくなっ たり、待ちくたびれたりして士気がさがるからだそうだ。 いろいろなことを考えていると、いつのまにか食堂を少し通り過ぎていた。 はっと気がついて食堂に慌てて入る。食堂を見回すと、井戸が見つかった。奥 にある調理場に勝手に入り、適当に木のカップを手に取る。 「あれー」 キルシュはカップを手に持ち、井戸の前で固まった。 綱を使って、下に垂らしてある壺を引き上げるのだが、肝心の綱が切れかけ だった。触ったらちぎれそうなぐらいに。どうしようか、と思考しながら井戸 を覗き込んでいると、後ろから声がかけられた。 「……何をしている?」 呆れたような男性の声。振り返ると、シュトラムハゼルがいた。 「シュトラムハゼル」 長ったらしい名前だが、面白い響きで、キルシュは彼の名前を好んで呼ぶ。 大体のヒトは省略して呼んだり、「老師」と呼んだりしている。シュトラムハ ゼルはやんわりと微笑んだ。この笑みは好きだ。安心できる、柔和な笑み。修 行中の険しい顔とは正反対だ、と考えると、おかしくなって思わず笑みを零し た。 「こんな夜更けに女性が一人でうろうろしているのは関心しないな」 「ごめん。でも、喉がかわいて」 「なるほど……少し待っているといい」 シュトラムハゼルが人差し指を、つい、と一振りすると空中に透明の液体が 浮いた。井戸から出てきたところから考えると、その水だろう。そういえば彼 は水を操ることが得意だと、自慢げに話してくれたことがある。 「すごい!言葉なしに精霊を操るなんて」 「それほどでもないさ。キルシュもできるようになる」 キルシュの持っていたカップにその液体が入ると、シュトラムハゼルが「が んばって練習するんじゃよ」と言ったのを聞いて、大きく頷いた。 汲んでもらった冷たい水を飲んでいると、彼は思い出したように言った。 「そうそう、バレンシアが明日会議をするからそれに出て欲しいと言っておっ た」 「……?それは、おかしいんじゃない?私はまだ一度も戦争に出たことがない のに。会議なんて出ても何も分からないよ」 「ああ。しかしバレンシアはお前の力をひどく買っておられるようじゃからの」 「ふうん」 「聞いているだけでいいだろう」 「そっか」 キルシュのほかに、シュトラムハゼルだけはリドルの名前に敬称をつけない。 それは以前、リドルの魔術向上の手伝いをやっていたからだそうだ。もちろん リドルの方があきらかに年上だったが、彼の手助けをしたのはシュトラムハゼ ルただひとりである。 シュトラムハゼルは昔、かなりの使い手だったとアルジュナの仲間たちは口 々に言う。そのときが是非見てみたいものだが、過去のこと。しかたがない。 ぐ、と水を全部飲み干す。そしてまっすぐにシュトラムハゼルを見た。その 瞳の強さにシュトラムハゼルは息をするのも忘れた。それほど、意志の強い目。 底抜けするような透き通った空色の目は、リドルと同じ。なるほど、リドルが キルシュを気に入る訳もわかったと彼は思った。 「いよいよ始まるんだね」 会議に呼ばれるのは初めてのことだ。つまり、すぐにでも戦場に陣を敷くの だろう。リドルがそう踏み切ったのは、ウルのこともあるだろうが、アリスの 報告もあるだろう。隣の部屋から聞こえてきた知らせに、「あいつらが動き出 しました」とアリスの子供のような声が聞こえた。別に盗み聞きしたかったわ けではないが、聞こえてしまったものはしょうがない。 「ああ、そうじゃよ」 悲しいものだ、とシュトラムハゼルは俯いた。 「本当にお前はバレンシアに似ている。昔の、だが」 シュトラムハゼルは苦笑してキルシュの頭をなでた。そうして呟く。 「人を殺すのを慣れてはいけない。素直に……怖いと思えばいいのだ」 「シュトラムハゼル、」 「お前はまだ子供だ。無理することはない」 「……私は生きたい。その為には、どんなに怖くても絶対にやらなくちゃいけ ない。迷えないよ、嫌だって言っても変わらないし、他の人たちはずっとつら いはずなのに」 だけど帰ってきたらどうか、シュトラムハゼルの前だけでも泣かせてほしい。 どこか父に似ている彼は、自分を否定しないと思った。 敵を殺さなくちゃいけない。そんな嫌な世の中は、いつ終わるのだろうか。 地を深紅に侵食する戦争は、いつ終焉を迎えるのだろうか。このアルジュナが 終わらせてくれるのだろうか。それとも、終わらないのだろうか。 暫く時間を掛けて、シュトラムハゼルはやっと口を開いた。 「今回は私は出ることができない。研究を進めたいからな」 「ん。わかってる」 うなずけば、シュトラムハゼルは言うべきか言わざるべきか迷うようなそぶ りを見せて、数刻悩んだあと、そっと告げた。 「私は、お前を後継者に、と思っている」 「え……?」 「お前は私の研究を近くで見ている。私もバレンシアもそれを許した。そして、 努力もできて才能があり、賢い」 もし嫌だったら、それはそれで別にいい、もともとあまり期待されていない 事だから、重いことじゃない。シュトラムハゼルは静かに言った。 「そんなこと、ない」 本当はずっと、そうなれたらと思っていた。シュトラムハゼルは自分の師匠 だと思っていた。力になれるのなら、後継者になれるのならと。願ってもみな い頼みだった。そうなれば、シュトラムハゼルが完成させた研究データをすべ て暗記しなければならない。彼が、死ぬ前までには。 それを考えると、少し憂鬱だった。 おそらく、今夜からは彼に会えないだろう。明日はリドルと会議へ行って、 それから戦争の準備があって慌ただしいだろうし。 「帰ってきたら、すぐに西の塔に行く」 「……ありがとう。待っているよ」 少し笑ったシュトラムハゼルは、今度こそ踵を返した。 希望と絶望の境目は、いつも唐突に、確実に、当たり前のようにやってくる のだ。 戻る? 進む?