赤く染まった大地に黙祷する









「今すぐにローランドと共に陣を敷く。各々持ち場につけ!」

 
 厳しく、威厳のある声で彼がそう言ったのは、何日前のことだろう。

  まだ5日しか経っていないというのに、ひどく長い時間この場所にいるよう
な気がする。戦いが始まったのは昨日の夜のことだ。回りはいつになく人々の
声に溢れている。
 
 怒号、断末魔、気合を入れる声。剣と剣を打ち鳴らす音、肉を裂く音、矢が
空を裂く音、魔術の激しい爆発音、光。


 ぴん、と張り詰めた空気。


 殺意だけが辺りから湧き出るように充満し、体全体を覆うように張り付く。
 キルシュは、一振りの刃の部分が長い、細めの槍を握り締めた。それはもう
すでに鮮血が滴っている。服や手、顔に散った赤はもう気にならない。今のと
ころ、自分の体に傷はなかった。あったとしても、そんなこと気にしている暇
はないのだ。
 息を吐くと同時に、四肢全体に力を込めて槍を横なぎにする。いとも簡単に
鎧を纏った敵は地に伏した。アリスに体術を習っておいてよかった。しかし体
力は限界に近い。
 果たして自分の体力も精神力も、持ってくれるだろうか。
 目の前のものを人間、ではなく敵としてしか見ない。そうすることで少し吐
き気がなくなるような気がした。


「キルシュ!」


 遠くでアリスが叫ぶように自分を呼ぶ。振り向く。

 彼女も血まみれで、可愛らしい顔には血がべっとりとついていた。彼女の持
つ鎌も然り。それを確認したと同時に、背後で気配がした。半ば反射的に槍を
振るった。後ろにいた気配は断末魔を叫んで地面に粘着質な音を立てて倒れた。


 今立っている場所は、もうすでに血が侵食し、赤黒く変色している。周りに
は折り重なる死体。どのヒトも淀んだ生気のない眼差しに、恨み、憎しみ、恐
れ、怒りが入り混じっている。どれも、自分が殺したもの。無理やり命を絶た
せた。
 ぞくり、と背中が震えた。槍を痛いほど握り締める。遠くに敵を見つけて、
右手をかざす。集中して、息を整える。右手が熱くなってくる。「――――」
精霊に呼びかけ、一瞬後に、目がけた場所が爆発した。

 まさかこんな場所で自分の実力を確認することになろうとは。
 体力は限界でも、しばらくは魔術で持ちそうだ。


 今のところローランドの方が優勢になってきたところ。
 遠くで一番大きな爆発音が聞こえた。敵の本陣のほうだ。音の根源は、リド
ルだ。彼の力のおかげでここまでローランドが耐えていられるのだろう。この
前の会議でも、リドルを中心として作戦を練っていた。
 他の仲間たちもそのおかげで士気が向上し、勢いが強まっていく。
 

 ――――勝ち戦。
 

 数的に負け戦のはずのこの戦争は、すでに彼の掌の上だった。

 そう確信する。
 鋭く息を吐いて、また一人薙ぎ倒す。腕がしびれてきた。汗が目に入って痛
い。それもあともう少しで終わる、もう少し頑張ればいい。そう何度も自分に
言い聞かせながら、また一人、また一人、と。

 鮮血がまた、顔にかかった。気持ち悪い。怪我もした。結構深い。でもその
痛みのおかげで、いらないことを考えなくても済む。リドルさえ、リドルさえ
敵将を打ち取ってくれれば。そうすればこの悪夢も終わる。右手に精霊を集め
て、放つ。こちらにも放たれるそれを、相殺した。
 


「あーあー、派手にやっているねぇ。もう血の海じゃない」


 やっと周囲に敵がいなくなったと思ったら、空気が冷えたような感覚が体全
体を撫でるように、ひんやりと覆った。キルシュは動きを止めた。否、動けな
かった。

 軽薄な笑みを浮かべた少年を前に。

 猫のように切れ長の、金色の目。時折吹く強い風に揺れる、一つにゆるく結
われた長い銀にも見える薄蒼の髪。いつの間に現れたのだろうか。空間転移の
類だろうか。それにしては少しも魔力を感じなかった。目の前にいる少年が異
常だ、と思うまでに時間はかからなかった。


「あの時の、」
 
 
 黒貴重の道化服を着た彼は、ピエロというよりも、ジョーカー。ひいてはな
らない絶対の強さを誇る、カード。いつかアルジュナで話したことのある、不
気味な少年だった。


「覚えてくれてたんだ。光栄だね」


 少年は背を丸めるようにひとしきり笑った後、キルシュを金の瞳に映した。
背筋が寒くなった。敵だ、戦わなくちゃ、と頭の中で自分が叫ぶ。でも体は言
うことを聞かない。道化師は優雅に腰を折った。


「久し振りだね、キルシュ。ボクはゼギル」

「あ……」

 
 怖い。手が震える。その場の音がなくなったような感じがする。傷が熱い、
何を考えていいかわからない。それでもこれは、こいつは、よくない。


「……世界は歪んでいるね。寂しいものだとは思わないかい」


 道化師は詩的なことを紡ぎだした。何を言っているんだ、という目で睨むと、
ゼギルと名乗った少年は「おー怖!」と茶化すように肩を竦めた。そして顔に
満面の笑みを浮かべながら、とても楽しげに聞いた。


「ねえ、キルシュボクが用意した余興はどう?お気に召してもらえたかな」

「……っ!」


 彼の言う「余興」がこの戦争のことだと気がつくのに、そう時間を必要とし
なかった。リドルに報告しなければ、と冷や汗が滲んだ掌を痛いほどに握る。
その痛みが、意識を現実に留めていてくれるような気がして。
 掌に精霊を集めようとするが、うまくいかない。集中できっこない。


「その様子だと、気に入ってもらえたようだ。嬉しいよ、こんなにたくさんの
人に喜んでもらえるなんて」

「何をほざいて……!」

「ほら、女の子らしくないよ。そんなこと言っちゃぁ、ねえ?だーいすきな人
たちに嫌われちゃうかも。でも精霊たちにはとんでもなく好かれているよね。
羨ましいなあ」

「!」


 キルシュは目を見開いた。


「精霊が、見えるの?」

「知らないの?魔力の絶対値が多い者は、精霊に最も近しい存在だ。もう、ヒ
トじゃないっていうぐらいに、ね。ヒトよりも、精霊に近い。だからこそ、そ
の存在を目で見ることができる。まあ、もちろん魔法を使いこなせてなきゃ見
えないんだけど。その点エルフは努力家だね」


 ゼギルは楽しそうに、詠うように言葉を丁寧に紡いでいく。まるで何かの物
語を語るように。切れ長の目を細めて、笑みを深くした。この笑みは嫌いだ。
その奥になにも見つからない、空虚な笑み。わかってやっているのだろうか。
不快感が胃の辺りを覆っていくようだ。


「当ててあげようか?君も、見えるんだろう?」

「……」

「知らないふりをしてたのかな。魔力の大きさは罪だね。エルフじゃない君も、
ヒトに近しくない。どうしてか、わかる?」


 君もそれを知りたいだろう?とゼギルはこてんと首を傾げた。その動作はあ
まりにも子供じみていた。そして続ける。「それが君の望みだ」と。

 キルシュは、歪な笑みを浮かべた。苛立ちが、頭を冷静にしていく。よくわ
からないことを述べる道化師が、何を知っているというのだ。それでも何か、
暴かれたくないものを暴かれた気がして、苛々とする。

 緊張を通り越したのか、すとん、と何かが落ちたように落ち着いた心臓は、
静かに脈打っている。キルシュは体全体の力を抜いた。息をゆっくりと吐き出
し、ゼギルをまっすぐ見ながら、


「そんなことはどうでもいい」

「ひどいね。君の望みを叶えてあげようとしてるのに」

「うるさい」

「知識への欲求、自分への疑い」

「うるさいってば」

「君の知りたいこと、全て」

「……ッ」


 ききたくないききたくない還りたくないききたくない、
 それが真実であれ、ゼギルが自分のことを知っていようと、関係ないのだ。
まず、やるべきこと。考えるべきことは、今目の前で笑う道化師をなんとかす
ること。他の事を考えるのは、リドルにこいつのことを報告してからでいい。
余計なことは考えるな、と言い聞かすように考える。けれど、駄目だった。

 所詮自分は子供で。
 爆発した感情を抑えることもできない。


「ふざけるな」


 叫んだ途端、「しまった!」と思った。抑えていた魔力が、異常にキルシュ
の周りを覆い尽くす。黒い感情。狂気。珍しく感情が爆発したのを自覚した。
暴走してしまう、と思ったときに思い出したのは、ネックレスの存在だ。あれ
があればまだ大丈夫かもしれない。
 止めてくれ、止めてくれ、とネックレスを握り締める。ゼギルはそれを見て
何かを感づいたようだった。ふっと杖を空中で振りかざす。

 ――――パキ、
 あ、と思った。

 チェーンが割れて、地面に落ちていく様を呆然と眺めていた。目の前が真っ
暗になるような気がした。



「!!」

 
 しゅるり、と黒い手がゼギルの影から伸びた。それはゼギルの足を拘束する
ように、何本も何本も絡みつく。半径何メートルか一帯の地面が、影が落とさ
れたように黒く染まった。そこから溢れ出るように、また黒く、しなやかな子
供のように細い腕が伸びる。
 キルシュはゆがむ視界に、それをとらえていた。懐かしい感覚がした。ああ、
これが私の最初の罪だったのか、と分かった。

 ゼギルの前に、ぽつんと一人だけ、体のある子供のシルエットが浮かび上が
った。右半分が空間に白い絵の具を塗ったように白く、左半分が墨を落とした
ように黒い。影絵のようで顔などの判別はつかないが、くるくるとした巻き毛
の髪と、スカートからして少女だろう。少女は、にたり、と笑った。口だけが
赤く色づき、印象的に、割れるようにぱっくりと。


「わお……悪趣味だね」


 ゼギルは呟きながらまた嗤う。それを元から知っていたように、見下すよう
に、感情の起伏がないように、わらい続ける。


「精霊の具現化か!面白い。でもね、」


 ふわりと、彼は重力を感じさせないように宙に浮かんで見せた。「ボクは死
なない」くるりと一回まわって、キルシュを見下ろした。そして消える。


「たとえ君がボクを消せたとしても、世界があるかぎり、ボクは何度でもここ
に生まれるから」


 ぐらぐらする。まだ意識がある。あの子を止めないと。唇を噛みしめるが、
疲労が襲ってきた。このまま目を閉じたくなる。壊したくなる。どうでもよく
なる。
  子供が甲高い声で笑った。嬉しそうに赤い口を弧に描いて、敵陣に向かって
両腕を広げ、小走りに走っていく。黒い手が蠢きはじめ、戦場を長細い腕たち
が覆った。

 仲間か?敵か?

 叫び声が鼓膜を揺らす。誰もそれを驚愕の眼差しで見つめた。畏怖の表情で
驚異的なスピードで伸びて敵を捕らえる黒い手を前にして。
 あっという間に敵は影に覆われていく。狂ったような恐怖の叫び声が戦場に
響いた。目を剥いて泡を吹き、喉をかきむしって叫ぶ敵たち。被害が及んでい
ない者たちは、それを見て逃げ出したが少女は楽しそうに笑いながらそれを捕
らえる。

 仲間は殺すな……!
 
 ずぷ、と黒い手に捉まれた敵たちが、闇の中に沈んだ。それは瞬きもしない
間だった。少女と共に、大地に影を落としていた部分は一瞬にして消えうせた。
残ったのは『食べカス』だ。戦場に静寂が降りる。仲間の視線は、自分だけに
注がれていた。誰も、何も口にすることができなかった。それほどに先ほど起
こった現象に驚いていた。

 まだ耳に残る、狂ったような叫び声。
 きっとローランドの民も、あんな声をあげて死んだのだろう。


「あ、あああ」

 
 自分はまたやってしまった。絶望した。完璧に精霊は操れていたと思ったの
に。今度こそアルジュナに見放されるかもしれない。帰る場所がなくなるかも
しれない。

 自分たちに任された場所以外の場所も、どうやら決着がついたようで、遠く
から仲間の歓声が聞こえた。この場所だけ、世界が切り取られたように静かだ
った。


 気にしていることは、仲間まで巻き込まれたのだろうか、ということ。それ
は確率的に低い。近くにいた顔見知りの仲間が、まだ立っている。よかった。
本当によかった。地面に落ちたネックレスを見る。淡く青色に輝いていた。離
れてもまだ、守ってくれていたのか。仲間が死んでないのはきっとこれのおか
げなのだろう。
 その色を見たら、力が抜けた。








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