不可視の偶像 






 ――――冷たい。

 ひんやりとした手が額に被さっている。優しい手だ。自分に危害を加えよう
としない手。2回撫でると、その手は離れていった。それが惜しくて、ぼんや
りとした頭のままで目を開ける。


「起きたか」


 シュトラムハゼルだ。
 彼の顔を見たとたん、申し訳ない気持ちになった。こんな状態で戻ってくる
はずではなかったのに。確かに今回の戦争では、キルシュのしたことは功績と
なってローランドに報告されるだろう。でも、そんなことよりも、自分の力を
抑えきれなかったことが憂鬱だった。

 ネックレスまで壊してしまって、しかも自分から会いに行くと言ったのに、
介抱されている。見覚えのある自分の部屋の天井を睨んで、寝台の横に置いて
ある、魔術で作られた明かりを見た。ぼんやりとした橙色の光に目を凝らすと、
光を司る精霊が静かに浮遊している。蛍の光のようなそれを眺めながら、考え
る。

 ゼギル、の言ったこと。

 体を起こそうとすると、シュトラムハゼルの押し戻された。


「まだ寝ていなさい。魔力の使いすぎだ……注意しただろう」


 思わずごめんなさい、と口にしようとしたが、喉がひきつって咳が出た。体
を横にして、丸める。肺が痛い。シュトラムハゼルが優しく背中を撫でてくれ
て、だんだんと落ち着いてきた。

 父さんみたいだ、と思いながら、息を整える。
 

「少し水分を取った方がいい。丸1日寝ていたんだ」


 差し出された水を有り難く貰う。少し体を起こして飲み干し、もう一度体を
横に倒した。


「リドルが空間転移で君を運んできたときは驚いたよ。死んだのかと思った。
本当に無事でよかった」


 空間転移、といえば。一瞬で場所を移動する魔術のことだったか、と思い当
って、リドルには悪い事をしたと反省した。彼が一番疲れているはずだから。

 少し出かけてくる、と言った後、シュトラムハゼルは部屋から出て行った。
静寂が重く感じる。魔術の暴走で、味方は巻き込まれなかったことだけが救い
だ。首をもたげているのは、あの少年。


 考えただけでイライラするような、全部見透かしたような言動。行動。キル
シュが既に精霊が見えていることも知っていて、それは誰にも言わなかったの
に、彼は知っていた。気味が悪かった。あの時廊下で会ったのだって、何か魂
胆があったのかもしれない。

 気にしたくないことを、いちいち言ってくる。あの少年に乞えば、自分が何
であるかわかったとでもいうのか。知りたい、知りたくない。知りたくない。
知らないことは、こんなにも恐ろしい。そしてそれを知っている、ゼギルが怖
い。



 今まで思っていたよりも、事が大きくなっているような気がしてならない。
これは自意識過剰でなくて、予感だ。



 知る、だけでは終わらない。嫌な予感がする。

 喉が渇いてきた。どうしようもなく、不安になる。眠れそうもない。
 布団にくるまって、震えを拭おうとする。指先が冷たい。1人になったとた
ん、嫌なことばかり考える。あの戦争で誰が死んだんだろう、とか、ウルのこ
と。ゼギルのこと。









 ふと、部屋に気配が現れた。ぱっと眼を開く。この気配は知っている。寝転
がったまま、視線だけを動かせば、相変わらず黒いコートを羽織った男がいた。
どこからか入ってきた風から、埃っぽいにおいとともに、血腥さが香った。彼
はどこか疲れた顔をしていて、それでも目は生きたままだった。

 これだから、この人はとても苦手だった。
 ヒトとして尊敬し始めた。
 だけど、この諦めが悪い、力強い意思を持ったこの目を見るたびに、恐ろし
くなる。何が、とは分からないが。


「眠れないのか」


 その声はひどく優しげに聞こえて、気味が悪かった。リドルは寝台の横の椅
子に腰かけて、キルシュの顔を眺めた。居心地が悪くて、目をそらす。いつの
間にか震えは止まっていた。この部屋に誰かいる、というのが心強かった。


「もうそろそろ先導隊がアルジュナにつくだろう。俺はこれからローランドと
会議だ。思ったより、早く終わった。お前のおかげとは言わない」


 ネックレスはあまり役に立たなかったな、とリドルは無表情に言った。怒っ
ている。ものすごく。怖くて思わず布団をかぶりたくなった。それを阻止する
かのようにリドルが布団の端を押さえつけた。


「なぜ暴走させた。ネックレスはつけておくようにと言っただろう」

「人を切るのを……迷ったわけじゃないし、つけてたよ。ただ、あそこに」

「はっきり言え」


 しどろもどろになるキルシュに苛立ったのか、彼は早口に訊く。キルシュは
唾を飲み込んだ。眼帯で覆われてない方の目を見返す。


「……ゼギルって、知ってる?」

「ゼギル?」
 

 リドルは片眉をあげた。嫌そうな声から察するに、これは知っている。それ
も、よく知っている類だろう。名前を出したとたん、怖くなった。名前を出し
た程度でアレが来るわけでもないのに。


「あいつが、私に、私は知りたくもないのに、でも知ってて、ネックレスも切
られて、どうしていいかわからなくなって……ごめんなさい、本当にごめんな
さい」


 もう自分が何を言っているかわからなくなった。
 リドルは苦しそうに眉をしかめた。「ゼギル、か……」呟いて、キルシュの
頭をぎこちなく撫ぜた。まるでそんなことをしたことがない、とでもいうよう
な手つきで。
 

「何か言われたのか」

「私、精霊が見えること、誰にも言ってないのに……」

「……そうか」

「それで混乱しちゃって、」

「ん」


 怖かった、と囁けば、何かがすとんと落ち着いた気がした。リドルは重いた
め息を吐いた。いつのまにこんなに恐怖していたのだろう。明るくしていなけ
れば、そんなことばかり思っていたのに。
 ずっと弱さをさらけ出すことがみっともないと感じていた。
 けれど誰かに零すことができれば、こんなに和らぐものなんだな、と思った。


「お前は気張りすぎだ。あまり無理をするな」


 シュトラムハゼルも、アリスも心配していた。
 そう零したリドルに、はっと顔を上げた。不謹慎だが、とても嬉しかった。
心配してくれる誰かがいるということ。それを考えただけで、まだ頑張れるよ
うな気がした。
 いつの間にか自分は泣いていて、堪えるように痙攣しだす喉を押さえて、枕
に顔を押し付けた。リドルは何も言わなかった。それが彼なりの気遣いだった
のだろう。


「精霊が見えるのは、己自身が精霊に近しいからだ。エルフは精霊を共存する
術を知っていて、主に精霊と密接な関係にあるからこそ見える」


 暫くすると、独り言のような囁きが聞こえた。ひどい顔をしているであろう
顔をあげて、まじまじとリドルを見る。苦笑した。キルシュは大人しく次の言
葉を待った。


「俺はエルフの村で生まれた。エルフの長と、人間の旅人の子だ。そうして生
活するうちに、見えるようになった」


 エルフの長と、人間が、愛し合ったとでも言うのか。そんな深いことを訊け
る雰囲気でもない。話の腰を折るべきではないと判断した。まさか、自分の事
を話してくれるとは思ってもみなかったからだ。


「でもお前は人間だ。だけど、初めて会ったとき」


 人間ではない感じがした、と呟いた。
 呆然とその言葉を聞きながら、彼を見ていた。リドルは続ける。


「精霊と密接に接してきたであろう、エルフに似た感覚を覚えた。最初は俺と
同じかと思った。だけどどうも違う。エヴァンで自然と共に暮らしていたから、
という理由ではなく、だ」

「私が……人間じゃない」

「でも人間だ。それ以上に理由がいるか?」


 ただ精霊が見えるだけだろう、と。それからリドルは言いづらそうに、「お
前を見たことがある気がする」と呟いた。
 それはつまり、キルシュと同じような人間を見たことがあるのか、と質問す
ると、よく覚えてないと答えた。確かに彼の中の、ほぼ接しないヒトはすべて
瑣末なことだ。何十年も前の話なら、覚えてないのも当然だろう。


「ずっと、繰り返しているような気がするんだ」


 それは消え入りそうな声だった。懺悔にも聞こえるような。
 彼らしくもない、どうにも普通じみたそれに、少し驚く。意味はよくわから
なかったが、何かあったの、と訊く前に、その場でゆるく首を振って踵を返し
た。
 

「悪かったな」




 
 言葉と共に姿がかき消えた。もう近くに気配も感じられない。ローランドへ
向かったのか。
 様子の変だったリドルに首を傾げながらも、天井に視線を戻した。すると、
ちゃり、という金属の音がして、その音源を捜す。






 見れば、青い宝石のネックレスが布団の上にあった。

 壊された場所はなくなっていて、元通りに。にぎると、冷たい感触がして落
ち着いた。魔力を感じる。ゆっくりとそれを首につける。寝入るまで、指でい
じりながら考え事をしていた。






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