朝靄の中で








 戦争が締結し、マイセルとローランドとの間に条約が結ばれた。マイセルの
領土の二分の一をローランドのものにする、という内容だ。

 マイセルにはもう兵力はほとんどなく、その他の兵力は全てローランドに寄
付された。マイセルを治めることになったのはリドル=バレンシア。アルジュ
ナはマイセルに移動した。




 戦争から5ヶ月後、アルジュナはマイセルの軍として稼働することになった。
元々のマイセル軍と手を組み、人数は500人以上も増えた。反感があるもの
はリドルとその部下が抑え、今はなんとか形になっていた。


 マイセルの元領主が住んでいた、ローランドよりは小さく、宗教国家らしい
シンプルな造りの城。今まで使われていたものなので、アルジュナの元駐屯所
よりもずっときれいだった。

 城のメイドも多く、リドルもそのまま働かせているので、これからもその清
潔さは保たれていくだろう。




 このアルジュナの移動でよかったことは、マイセルが小さな国家だったこと
だろう。そうでなければ、いくら知識の豊かなリドルといえども、こんなに早
く統治はできない。

 リドル=バレンシアが領主になってから、マイセルの宗教意識は改革された。
元々住民は、エルフを敬う宗教に反感を持っていた者が多く、この改革はその
者たちに支持され、成功した。

 今ではマイセルの住民も、それぞれの暮らしを営んでいる。









「キルシュ」


 後ろからかけられた声に、振り向くことはできなかった。
 背後に、誰か立った。誰かなんて、声をかけられる前からわかっていたが、
振り向きたくはなかった。今の自分のひどい顔を、誰にも見られたくなかった。


 5か月だ。


 アルジュナがマイセルに移動することになったとき、シュトラムハゼルは魔
術研究をしている塔に独り残る、と言った。勿論リドルは常に会いに行ける。
瞬間的に移動ができるのだから。

 だけどキルシュにはまだそんな技術がなかった。素質がない、というぐらい
に、できなかった。だから、マイセルでアルジュナが落ち着いたら、会いに行
くと約束した。


 そうして経った5か月。
 キルシュの元に届いた手紙。
 これを渡しにきたアリスが、ひどい顔をしていた理由がわかった。




 ――――老師死亡。遺骨は皇国ローランドに。
 後継者、皇国に帰還せよ。





 
 後継者とは、キルシュのことだ。
 シュトラムハゼルが、死んだ。その事実を知ったとき、頭を鈍器で殴られた
ような衝撃がした。信じたくないような内容に、手が震えた。以前会ったとき
は、いつもどおりだった。よくしてくれた。
 マイセルに移動する直前まで、魔術の指導を受けていた。
 もう歳だとは知っていたが、こうも唐突だとは。
 

「約束したのに……」


 半ば呆然と呟いた言葉は、リドルに届いただろうか。
 彼は何も言わなかった。もう一度キルシュの名前を呼ぶと、横に並んだ。

 ここからはマイセルがよく見える。城の見張り台だ。時折強い風が髪を煽る。

 活気を取り戻そうとしているマイセルが、関係もないのに憎らしくなった。
あそこに残っていればよかった、なんて取りとめのないことを考えてばかりい
る。考えても、どうしようもないのに。
 
 シュトラムハゼルが死んだのが発見されたのは、一昨日の明朝らしい。

 老師の様子を見にきたローランドの兵が第一発見者で、一体いつ死んだのか
は不明。リドルさえ、死に際に立ち会えなかった。


 キルシュはそっと、リドルの横顔を見た。
 青い目はどこか遠くを見ていて、静かな顔だった。こんな思いを、人間と関
わるリドルはずっとしてきたのだろうか。そう考えたら、胃が重くなるような
感じがした。






 人の死を、感じて、それでも自分は老いない。





 それがどれだけ孤独なものなのか、キルシュにはわかることができない。
 今わかるのは、リドルも今、同じようにシュトラムハゼルの死を悼んでいる
ということだけだ。

 いつだったか、リドルとシュトラムハゼルは昔からの友人だということを聞
いた。少しの間しか関わっていない自分がこんなに苦しいのに、リドルはどれ
だけ苦しいんだろうか。


「結局、結界は完成しなかったな」
 
 
 言いたいことは、そんなことじゃないだろう。
 そう訊けるほど、キルシュは子供じゃなかった。マイセルの街に目をやる。
穏やかな朝日に包まれた街。朝焼けの赤が、ゆっくりとした空間を作っている。


「私が完成させるよ」


 シュトラムハゼルの意思を、受け継ぐんだ。
 そう心に誓った日。またぐっとしたものがこみ上げて来て、目じりを乱暴に
拭った。深呼吸をする。息が熱くなっているような気がした。まだたくさん訊
きたいことがあった。教えてもらわなければならないこともあった。だけどそ
れはもうない。

 自分で切り開いていくしか、ない。
 切り開いて見せる、と強く思った。


「――――そうか」


 そう答えた時のリドルの顔は、見なかったことにした。


「うん……じゃあ、そろそろローランドへ向かう準備をしにいくよ」

「いや、しなくてもいい。俺が送ろう」


 いつの間にか、リドルは自分を見下ろしていた。
 そうだ。彼こそ行くべきなのだ。そう思いいたって、頷くことで返した。き
っと今、すぐにでも駆けつけたいと思うのは彼なのだろう。もう一度手紙を見
た。乱暴で粗末な文。


「マイセルは大丈夫?」

「1日開けるぐらい大丈夫だ。他のやつらもいるしな」

「そう」

「……シュトラムハゼルはな、」


 いいやつだったよ。


 呟いた彼は、寂しそうだった。また視界が滲んでくるような気がして、目を
そらした。いつの間にか増えた、リドルと過ごす時間で、彼がこういう目をす
ることがとても苦手だった。


「ねえ、どうしてリドルは人間と手を組むの」


 零れたような言葉だった。気がついた時には遅かった。こんなこと訊くつも
りじゃなかったのに。まるで手を組んではいけないような言い方だ。そんなつ
もりじゃない、と否定する前に、リドルが手で制した。


「さあな」


 朝靄でにじんだその顔は、少し歪んでいるように見えた。













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